お題2:吸血鬼パロ
ばん様 【Queen's Kitty】 ※R-18
臆病な吸血鬼は王子様に恋をする
青々と茂る樹々が風で揺れる、森と山に囲まれ、険しい場所にひっそりと在る小さな村。人がまだか弱く、文明が栄え、街が夜でも明るくなる前、地上に居たのは人だけではなかった。今では書物や物語でしか語られない、吸血鬼や精霊、エルフといった人ならざる者達が存在していた。山脈深くあった村は人と動物達、そして人ではない者達が手を取り合い共存して過ごすことも出来た。気高い彼らは人が科学を生み出し、不要とされなくなったのを知ると多くは森の奥へと消え、また残った一部の者は人として帰化することを決めた。
長い長い時間をかけて魔から人となっていった、そこが椿の生まれた場所。
「ううっ……」
座るのが年若い青年ではなく、妙齢で恰幅の良い老紳士が出てきそうな重厚な造りの書斎。豪奢な机と椅子に座り、青い顔でグラスに注がれた赤いドロドロとした液体を啜る。口に含めば酸味の利いた野菜の香ばしさと僅かな甘味が広がっていく、トマト本来の甘さの中、加えられた果物の甘さだけでは頼りない。最も足り無いのは椿が飲み下したトマトジュースではなく、椿が生きる上で欲しなければならない重要なものなのだが彼がそれを生き物から間接的でさえも受け取るのを拒否しているため、体は慢性的な栄養素の不足を訴え、血が遠のく。籠いっぱいのたわわに実る赤いトマト、その脇には医療用の輸血パックが鎮座している。
机に力なく突っ伏して、唇からはちゅーちゅー、そんな可愛らしい音でグラスからストローで吸い上げる、ごぽりと赤いトマトの液が口元を濡らす。零れた液を舌で舐めとれば、空いた唇からみえたのは犬歯というには長い尖った歯。
血のように赤い満月の日に生まれた椿は人ではなかった、記憶からも消えそうな小さな村の領主である彼の親もまた人ではない、穢れない処女の柔肌に牙を突き立て血を吸う夜の住人として名高い吸血鬼。それも純潔といえるほど血の濃い子どもは幼いうちに屋敷にぽつりと残されていた。主達の帰還は気まぐれなものなのだろう、哀れに思った椿を拾ったのは小さな村の領主に仕えていた眷属である赤崎の父と母だった。代を重ね限りなく人へと近づいていたにも関わらず、赤崎親子は椿を家に迎え、我が子と同じように人として育てた。
純粋な吸血鬼でありながら臆病な性格の椿は吸血鬼でありながら血を恐れ、血をみると倒れてしまうため、血液の代わりにトマトジュースを好んで飲んでいた。グラスに入っていたジュースが空になり、ようやく隣にある輸血パックを横目で眺めては溜め息を吐く。喉は鳴り、体は血を望む、しかし椿はこれが見知らぬ誰かの血だと思うと怖くて触れない。頭を抱えた椿のテーブル、どっかりと乗せられたのは朝一番で採ったのだろう、朝露がついたままの赤いトマトをいっぱいに詰めた籠。頭上から降って来たのは見知った声に飛び起きた。
「おーい椿、朝イチで採ったトマトだぞー!美味そうだろ?!庭師のドリさんととったんだ!」
「お前また輸血パック残したのかよ、懲りない奴だな…」
「まぁ、そう言うなって誰にだって苦手なもんはあるんだしさー!」
「世良さん、アンタはそうやってコイツを甘やかさないで下さい」
友人に話かけるようなそんな気安さで声をかけるのは男性の割に小柄でくるくると表情が変わるせいか、印象としては犬に近いが吸血鬼とは犬猿の仲のはずの狼男の血を引いている、人なつこい顔で笑う従者の世良と片目にはモノクルをかけ、黒のベストとスラックスに白のシャツを着た執事の赤崎だ。二人とも立場は椿より下で本来ならば仕える立場にあるのだが昔から知っているせいか、どうにも上下関係と言うものがなく、仕えるようになってからも椿が望まなかったのもあって彼らの関係は主従へと変わっても口調や態度だけは昔と変わらないままでいた。
「あっ……すみません、俺も畑手伝わないといけないのに」
「いいっていいってお前は休んどけ、なーなー赤崎ー!
このトマトでサンドイッチとサラダ作ってくれよ、俺腹減ったー!ついでに朝飯にしよーぜ!」
「ハァ?俺が作るんスか?…仕方ないっすね、キッチン行きますか」
「朝メシ、朝メシ!椿、お前も食うだろ?三人分よろしく~!」
「調子いいっスね、高くつきますよ?」
世良に背中を押され、広い廊下を歩く。ケラケラと笑う声に促されて歩く足取りは軽い、貧血のせいか少しふらつくけれど支えてくれる手があると思えば平気だ。日射しが射し込む中、喋りながらキッチンへと向かう。穏やかな日々は確かに続いていて、今日もこの気怠いくらいの幸福が愛おしかった。
◆ ◆
異変を肌に感じて椿は一人、森を蝙蝠の姿で駆ける。
人里からも離れ、半ば記憶からも忘れ去られつつある村は隣国のある国に比較的近い、とはいえ訪れる人も稀にいる。他国から物資を受け入れるために訪れる者もまた決まった面々で誰もがこの村の出身であったし、他所からこの村へと住み着いた者もまた訳ありで国を追われた者達ばかりだ。穏やかなこの場所を守るのは領主である椿の役目であり、彼らを守るため張られた結界から風に乗って香る血の匂いが色濃くなる。道には血痕と何かを探す男達の荒い息と気配を感じ、樹の上に陣取り、蝙蝠の姿のまま周囲に目を光らせる。隣国であるイースト・トウキョウ・ユナイテッドへと程近い村境の森、椿は血塗れで倒れる人の姿をみつけた。
(すごい、血だ…!)
鎧を纏う脇腹は衣服の上からでも血を吸い真っ赤に染まる、身なりをみるに高貴な身分の者なのだろうか。剣を構えたまま、痛むのにも構わず周囲を警戒している。追われているのだろう、知らず恐ろしさから蝙蝠の姿のまま震えるが気を取り直し目を凝らす。視界の先にあった彼の美しい顔立ちに魅入られていた。艶やかな黒髪は曇りもなく、闇へと溶けるようだ。白銀の鎧と水色の衣装はシンプルであるが洗練されていて良く似合っている。高い鼻、金糸の混じったブーツ、貴族を絵にかいたような美しい青年がそこに居る。彼の黒曜石のような黒の瞳が一瞬だけこちらを向いた気がした。
暗い夜、鬱蒼と茂る森の中であるはずがない。一瞬だけ絡んだ視線、胸が高鳴る。
気づいた時には人の姿になり、彼の体を抱えていた。
「ーーキミ、は……」
「喋らないで、大丈夫。俺が安全な場所へ運びますから」
彼の意識が朦朧としているのを今ほど感謝した事は無い、もし自分を抱いている平凡そうな少年が体から影のように蝙蝠を巻き散らして夜の空を飛んで駆けているなんて普通の人間だったらまず恐れ叫び逃げ出そうと暴れたのだろう。それどころか、目の前の彼は椿の顔をみて安堵したように身を預け、意識を失った。なんとしてでも彼を助けたい、結界を越えて訪れる者を外敵として見定めるどころか、己から招き入れるなど赤崎が聞けば怒ったのだろうが今の椿の頭にはこれっぽっちも浮かばなかった。傷だらけで怪我をしている見知らぬ青年を抱え、急いで屋敷へと連れ帰る。助けたい、そればかり思う。
「ザキさん!!すぐにベッドの準備を、それからお医者様を呼んで来て下さい!!」
屋敷の前、ランプを手に主を待っていた赤崎は抱えている人物をみて驚いたが常にない椿の必死な表情に押され、客室の一つの鍵を開け、寝惚けていた医者である堺を叩き起こし、屋敷へと呼んだ。出血の割りに傷はたいしたものではなく、安静にしていれば直に治るだろう。医者がそう告げると椿はホッと胸を撫で下ろした。
「包帯は取り替えて、常に清潔を保つように。熱が出ましたらこの薬を飲ませろ、何かあったら俺を呼ぶように」
「ウス、堺さんも夜分遅くにお呼びだてしてスミマセン」
「気にするな、この村じゃ医者なんて暇なだけだからな」
そう言って椿を見下ろす堺の表情は硬いが存外に眼差しは優しい、安堵する椿に反して隣にいた赤崎は主が招き入れた来客を冷静に見詰める、簡素なベッドで横たわるかなり身分のいいだろう人間をみて警戒する。面倒なのはこちらの方だろうに厄介事を抱え帰って来た主へと舌打ちをした。
「ざ、ザキさん、その、すみません・・この人、怪我をしていて放っておけないので置いてもらえないですか・・?」
苛立つ赤崎に青ざめて震え、怯えながらも伺うように心優しい領主様は予想通りの台詞を吐いた、絶対言うと思っていた。否、言わないわけがなかった。チキンでビビりでその癖、お人好しな人間よりも人間らしい吸血鬼の主人。盛大に嫌な顔をしてみせれば近くにいた堺が白衣の背を向ける。赤崎だって出来るならそうしたい、それが出来ない自分に苛立ちながらも重い溜め息を吐いて、あっさりと白旗を上げた。
「怪我が治るまでの間なら許してやる、ただしコイツの面倒はお前がみろよ。俺は手助けなんかしないし、もしも、少しでも妙な真似しやがったら直ぐさま村から追い出すからな!」
「ーーあ、ありがとうございます!ザキさん!!」
普段なら睨めば、慌てて口を噤むのにこの馬鹿主ときたら、自分がこうと決めれば何が何でも引かないのだから性質が悪い。未だベッドに眠ったまま起きない男を見下ろし、血の苦手な主のエサにでもなるか。害があるなら椿には国へと帰ったとか適当な理由をつけて処分してしまえばいい。喜びながら上機嫌でベッドに眠る男の傍に寄り添い、はにかみ見下ろす椿を尻目に赤崎は一人物騒な考えを巡らせ、本当の本当に限りない譲歩を持って事の成り行きを見守る事にした。
治療の甲斐もあってか、数日後、目覚めた青年の名はジーノと名乗り、隣国の王子だと明かした。王に興味がないジーノだが自分を推す一派と対する一派の争いが激しくなり、身の安全のためという名目で国から離れようと保養地へ向かうところを襲われたのだと言う。助けてくれた椿へ感謝の言葉を述べるジーノに赤崎はさらりと、もちろん渋ったと言ってやるがこの王子様ときたらなかなかの食わせもので悪びれるわけでもなく、そうだったのかい?なんてさらりと返して至ってマイペースだ。ひたすら嫌な顔をする赤崎に慌てて取り繕う椿の姿があった。
本音を言えば、赤崎としても怪我人であるジーノを放っておくのは忍びないのもある。相手が王族ならば尚更だ。思ったより口が硬そうにも思えたし、怪我が治り、従者が迎えにくるその日まで恩を売っておけば後々、有利なのはこちらの方だ。怪我が癒えるまでならと、改めて赤崎はジーノの滞在を渋々ながら了承した。
「バッキー、お茶のお代わりもらえないかな?」
「あ、はい、今お持ちしまっス!」
己の住む城でもないにも関わらず、ジーノは慣れた仕草で椿を呼びつける。王族らしい気まぐれでワガママが何故だか不快に思えず、当たり前のようにも椿は従った。怪我で身動きの取れない不便な彼の体を想い、椿は献身的にジーノに尽くした。暇をみつけては彼のいる客室へと足を運び、熱が出ていないか、額を当てて確かめ食事をせっせと運ぶ、汗をかけば肌をタオルで拭き、服を着替えさせ包帯を巻く。同じ男であるにも関わらず鍛えられ、無駄のない体は痛々しい傷跡が残っていた。もっと早く駆けつけていられたら、知らず眉間に皺が寄る。
真新しいポットから注がれた新しい紅茶の甘い香りが部屋を満たす、カップに口をつければ、優しい味と香りが心地よい、どこから取り寄せたのかと聞けば、庭に植えたハーブなのだというのだから驚いた。なんでも擦り傷や切り傷にもよく効くらしい、日干しにして渇いた葉をお茶にした割りには苦味はない。窓から入る風は涼しくカーテンを揺らす。時折、遠くから聞こえる楽しげな声は農作業に勤しむ住人達のものだろうか。この屋敷で過ごす日々は穏やかで悪くない、執事がうるさいのは玉に傷だなと思うが彼の反応が本来ならば正しい。他所からやってきた見ず知らぬのものに優しくよりも警戒するものだ。
村の者や従者達が突然現れた王子様をいたく気に入った椿をみて興味深そう眺め、彼に付き人のようにあれこれと命じるジーノをみて、これではどちらが主なのだろうかと苦笑しているのも知っている。椿がジーノを気に入ったように、ジーノもまた椿をバッキーと愛称で呼ぶくらい気に入っていた。
素朴で平凡という言葉そのもののような青年はまだあどけなく幼い。不意に脳裏を掠めたのは混濁する意識の中、必死に呼びかける彼の背に無数の蝙蝠が影を成していたのは気のせいだろうか。あれは夢だろうか、まるで幼い頃、乳母が寝物語に聞かせてくれた吸血鬼そのもの。
「ーーまさか、ね」
「どうかしましたか、王子?」
なんでもないよ、そう告げてやればそうですかと気遣わしげに覗き込まれる。こちらをみつめる椿の黒く大きな瞳をみていたら自然と笑みがこぼれてしまうのは何故だろうか。まっすぐな割りに毛先が跳ねて癖のある彼の髪を撫でてやれば照れ臭そうに俯いて笑う。射し込む陽の光を受けて黒いはずの髪が茶色に染まる。優しくするなら女の子がいいに決まっている、そう思うのに反してジーノの手は椿の髪から頬へと降り、両手で彼の顔を包む。びくりと震える椿の頬が赤くなる、強張り閉じられた瞼がキスを乞うようにみえて誘われるまま、そっとくちづけた。最初は触れるだけ、驚いて見開いた瞳は再度与えられたくちづけを受け閉じていく。
トマト味のするキスなんて色気も無い、それこそどうかしていると自嘲した。
◆ ◆
『国内の状況は尚も芳しくなく、城内は派閥争いにより混乱している。城へ帰還よりもその場にて停留し、怪我の快癒を待ってから迎えの使者をそちらへ送ろう。表向きは皇子は保養地にて静養と公には明かしているが先日の襲撃の件もある、危険がないとは限らない、用心するようにーー』
「コッシーって堅物な癖に字は綺麗なんだねぇ、意外だよ」
飾り気の無い武骨そうな文字をみて苦笑する、ジーノの従者であり、長く王家へと仕えてきた騎士長の村越からの便りは予想通りのものだった。読んでいた手紙をベッドに放り投げて息を吐く。
大国であるイースト・トウキョウ・ユナイテッドは揺れている。王を傀儡とし、己が政治を意のままにするのを望む大臣たち過激派と国のために憂い、騎士の身分でありながら国や民を思い、彼らを励まし、頼りない王達に代わって支えてきた村越達の穏健派が常に睨み合っている状態だ。数年の間に王が次々と代わり、国もまた不況に喘いでいた。新たな王が連れて来られても良くはならない生活に焦れているのは何も国民ばかりではない、王子という立場の手前どちらかへ偏るようなスタンスはとらなかったジーノだが、ジーノを王へと推す声がないわけではない、国民から人気があり、気まぐれだが実力を伴う彼を望む声を少なくはなかった。
ジーノ本人はといえば、ハッキリ言って王の座には興味が無い。会議はサボり、定刻通りに現れない、機嫌を損ねれば途中で退席してしまう王子など大臣からすれば邪魔なのだろう。彼らが欲しいのは意のままに操れるお人形なのだから、当然と言えば当然なのだが、直接的な手段に出てきたのは彼らも相当焦っている。政治への不信に外務官である後藤が有里を伴い、海の向こうにある異国へと赴いたのを聞いていた、ETUを強国へとのし上げた伝説の男、彼が帰ってくれば大臣達などひとたまりもない。その前に刈り取れる芽は少しでも摘んでおきたい、とでもいったところだろうか。
「できれば、そういう血なまぐさいことはボクのいないところでしてほしかったんだけどね」
用意された客人用のシンプルな夜着の下、切られた脇腹は以前よりも痛みを感じない、包帯も解かれ酷かった傷跡は小さくなり、打ち身や擦り傷といった軽い怪我は消えていた。今では屋敷の中を歩き回れるぐらい元気になっている。腕や足の筋肉が少し落ちているがこれからリハビリしていけば問題ないだろう。王子が剣を握るのが早いか、奴らがこの村へ乗り込んで来るのが早いか、願わくば人の良さそうな領主のいるこの村で何も起きなければいい、そう思う。自分が思っているよりもこの屋敷での暮らしは居心地が良過ぎたようだ。そっとベッドから抜け出し、ベランダへと足を向ける。頬を撫でる風は優しく、樹々の匂いがした。
「ねぇ、キミもそう思うでしょう? バッキー」
「ーーーッ!?」
テラスからやってきた椿はひどく驚いていた、まさか気づかれると思ってもいなかったのか。そっと影から這い出てきた椿の瞳は頭上にある満月と同じ、赤い眼をして立っていた。いつものような自信のない、気弱な表情はそこにはない、くすくす、鈴を転がすように妖しく笑う。近づいて誘うよう細い腰を抱いてやれば、椿は甘えるよう微笑みを浮かべ身を寄せた。香水なんてつけたことのないような椿から花の香りがする、香る匂いは彼と同じ名前の花に似ていた気がした。男を誘う娼婦のよう、愉しげに笑っては誘い腕を伸ばす、ジーノの首筋を品定めするように首筋をぺろり舐める。
「ねぇ王子、においがしませんか。あまい、あまい、花みたいな、そんな匂いが・・あぁ、王子がすごく・・」
ーーオイシソウ。
うっとり囁くよう告げられた言葉は続かない、瞳の色が揺らぎ、一瞬で黒へと変わる。
驚愕と怯えからか体を震わせ、崩れ落ち泣き出す椿をジーノは支えるよう抱きしめていた。
「い、いやだ、やだっ・・・みないで、みないで下さいっ!こんな、こんなっ、お、俺・・?!」
「どうして?今のバッキーすごく可愛い顔してるのに、どうして隠したがるの。隠さないでボクにみせてよ、ね」
泣きじゃくる椿を抱きしめながら溢れた涙を唇で舐めとる、宥めるように頭を撫で言葉を促した。
「いつから、気づいていたんですか・・?」
「んー、この村の雰囲気っていうかな。人が結構いるのに人の匂いがしないし、やっぱり満月の時かな」
満月が近づく度、増して行く濃厚な魔の気配、闇の合間から聞こえる野犬よりもずっと野太い獣たちのざわめき、村は異常なほど沈黙を持って答えた。限りなく人間へと近づいたとしても魔性からは抗えない、人間でさえ満月の夜は犯罪が増えるのだ、人ならざる者達は尚更だろう。椿でさえそうなのだから。
「この村にいる人は人間じゃ、ありません。もちろん普通の人もいますけど、みんな長い年月をそれこそ数百年をかけて限りなく人間に近づいて、人とも交わってるのでだいぶ血も薄いですけど。赤崎さんは俺と同じ吸血鬼で、世良さんは狼男の血が混じってて、他の人も大体そんな感じで人間じゃないっていうか、王子みたいな外の人達とはちがうんです」
「姿も人とほとんど変わらないしお日様出ていても皆さん普通に生活してますけど、満月の夜になると根っこは魔物だから、魔性に抗えなくて、だからみんな満月の夜は家に籠って一晩過ごすか。外で憂さを晴らすなんて人もいますけど、ほとんどの人は大人しくしてるんだと思います」
「・・ただ、俺はちがうから。俺は皆とちがって純潔なんです、その癖俺、血が苦手で見るのも嫌で、生きてる誰かの血なんて飲みたくもなかったし怖くて触れもしなかったのに・・おかしいんです。今までは我慢出来たのに、王子を見てから喉が渇いてお腹が減ってたまらなくて、気づいたら王子が餌みたいにみえて・・・」
物凄く美味しそうな獲物が目の前にいる、朧げな意識の中、彼をそう思っていた。酷く、酷く、喉が渇く、胃は空っぽなままで脳からは空腹を訴える信号がひっきり無しだ。あれ程心配し、このまま死んでしまうのではないか、そう思っていたはすなのに。王子を初めてみた時から視線は釘付けだった、ベッドで眠る彼が目覚めるのを心待ちにしていた。目が覚めてからも傍に居られるだけで幸せで心臓が痛いぐらい高鳴る、頭の中は王子のことばかり考える。名前を呼ばれれば嬉しい、彼が笑うその顔をずっとみていたくなる。
同じ位、血への欲求が抑え切れない、あれだけ拒んでいた吸血衝動が酷くなった。こんな浅ましい姿をみられたくなくてベッドへ潜って必死に抑えつけた。今まではこんなことはなかった、王子と出会うまではーー。
椿はそれを恋だとは知らない。
「それってバッキーがボクに恋しちゃったからじゃない?」
「・・こ、恋っ?!・・俺が、王子に・・っ?!!」
信じられない、大きな黒の瞳はそう言って見開かれた。その無垢さにこれではどちらが誑かそうとしているのか、わからないなとジーノは笑う。頬へ手を伸ばしてそっと撫で、怯え身を硬くする椿を宥めるようくちづけた。触れた唇の柔らかい感触だけでは足りなくて貪るように行為を深めていく。狭い世界しか知らない無知な彼だって気づいているはずだろう、同性同士でこんな風にキスはしない。されたとしても嫌悪が先に立つ、それが自然だ。それどころか互いに舌と舌を絡めて与えられた熱を分け合い、満たされていくこの感情が恋でないとしたら何なのかと問いつめてやりたいぐらいだ。
「好きだよ、バッキー」
「……っ、………!」
「好きだよ、ボクはバッキーが好き、バッキーは?」
「え、お、おれ、おれは……」
「バッキーはボクのこと好き?」
「俺も、王子のことが……………ーーすき、です」
ほら、キミの言葉でボクはこんなにも嬉しくなれる。
嬉しくて細い躯を抱きしめれば、聞こえたのは小さな空腹音。くるるる、なんて可愛らしい音に思わず笑う。腕の中にいる吸血鬼がひどく恥ずかしそうで熟したトマトみたいに真っ赤な頬へとくちづけた。心が満たされて体が安堵したのだろう、ずっと我慢していたのだ。次に満たされるのは食欲だろうか。
少し考えてジーノは着ていた夜着の襟を緩めた、露になっていく白い膚と綺麗な鎖骨のライン。ごくりと喉が鳴るのが聞こえて視線を戻せば、申し訳なさそうに逸らされる。
「ーーいいよ、ボクの血でいいなら吸っていいよ。
痛いのはあんまり好きじゃないんだけど、バッキーには助けてもらったからね」
ジーノはウインクして、どうぞと椿の前に首筋を晒した。差し出された白い首筋、綺麗な鎖骨をみてどうしても血を吸う事に躊躇いを覚えてしまう。どうすればいいのかもわからず王子を見詰めれば、彼の綺麗な手がそっと椿の髪を撫でていく。怯えさせないように子どもに言い聞かせるような優しさで。
「いいんだよ、許してあげなよ。そんな自分をさ。
ボクだってご飯を食べないと死んでしまうんだから」
ボクは女の子じゃないし、初めてでもないから味の保証はしないけどね、と彼は気安く言う。
なんだか王子がさりげなくすごいことを言ってた気がするのだけどいいのだろうか、
あぁ、だけど、だけど、王子が美味しそうで、甘い香りから逃れられない。
「おいで、バッキー」
あぁもう、そんな風に誘われてしまったら抗えない。
誘われるまま椿は王子の血を吸い、吸い終わると同時に意識を手放した。
近頃、主と居候が随分と仲が良い、明らかに以前とちがう。なんだか空気まで甘い、心無しかピンクな感じさえする。血をみて倒れる吸血鬼の主があれ程、毎日飲んでいたトマトジュースを飲む様子がない、貧血気味で白かった肌は血色はよくなっているし、何より距離が近い、近過ぎる。
王子とじゃれていた椿が用事を言いつけられたのか、どこかへ行ったのを確認して王子へと近づく。
「やぁ、ザッキー」
アカザキじゃなくてアカサキなんスけど、と言っても王子はどこ吹く風で優雅に紅茶を口にしている。屋敷の庭園に備え付けられたカフェテラスは天気が良いせいか日射しは明るく、吹く風は緩やかだ。カップを手に長い足を組んで座る姿はさっきまでいた領主よりもずっと絵になっていた。椿が走り去ったその場所を優しい眼差しでみつめる瞳はどこまでも甘い。椿も大概だとは思ったがこの王子様もひょっとしてかなり椿を気に入っているのでは、そう思ってうんざりした。まさか、思いたくもなくてぽつりと口についた疑問をそのまま声にして盛大に後悔することになった。
「アンタ、椿に血を与えてるでしょう」
「うん、そうだよ?」
あっさり認めたジーノをみてぎょっとする。エサにでもなっちまえ、確かにそうは思っていたがいざそうなったのを知ると驚いた。臆病で輸血用の血液すら怯える椿が生きている人間から血をもらっている、にわかに信じ難いが王子の口から出る惚気混じりの事実に目眩さえし始めた。
「バッキーったら初めてボクの血を飲んだ時は飲んだだけで倒れて大変だったんだから、最近はようやく慣れて吸ってくれるようにはなって、量は多くはとらないのは相変わらずかな。 もっと吸ってもいいよって言ったら”王子の血は美味し過ぎて少しでお腹いっぱいになるんです”だってさ」
ジーノは人間なので詳しくは知らないだろうが世間一般もしくは人間達が抱く吸血鬼のイメージはおおよそは血を吸う事で同胞を増やし、吸われた人間は干涸びてしまうそんなところだろう。餌(え)となった人間を殺すだけ吸うのは腹を空かせた下級だけだ。椿や赤崎のような純潔種や上流のものとなると吸血で食欲を満たすなら量は僅かでいい、同じ餌から何度も吸うことになるのだから餌を殺すような真似は決してしない。
吸血鬼が同胞に選ぶのは幼い少年少女か、処女か童貞の性が未経験であり、彼らは自分の意思で本当に同胞になるのか選ばせる。非処女や非童貞ならば吸血鬼と血を交わし、己の伴侶となり永遠の長い時間を過ごす。そのための誓いは絶対であり、血を分け与えた吸血鬼が死ねば、伴侶もまた同時に消滅する。
「ねぇ、吸血鬼って好きな相手から血を吸うことがセックスでオーガズムを感じるぐらいイイって本当?」
王子の言葉に赤崎は今度こそ頭が痛くなった、吸血鬼にとって、吸血するのが己の意中の相手だとすれば、もう一つ別な意味を含むことになる。この王子様ときたら全部わかっていてわざと赤崎にカマをかけてきているのだ。小さな庭園に置かれた白いテーブルの上、置かれたのは隣国の封書にて書かれた手紙。便せんは一枚は以前、村越からジーノへと書かれたもの。もう一枚はこの村に関する報告書だ。
「王子様……アンタって人はホンットに人が悪いっすね」
「アハハッ、まぁ王族は何か危ないからと用心しないといけなくてね。ゴメンね、ザッキー」
「…俺は、あいつが幸せならそれでいいんス」
世良や赤崎のように人へ帰化していった者とは違い、純潔である椿は誰よりも魔性を抱えていた。蝙蝠や蝶や人へ難なく変化し、聖水やニンニクなど意味は無い。銀ではない銃弾で撃たれ蜂の巣にされても、剣で切り刻まれ肉塊になろうが、一瞬で椿を元の形へと戻す。その再生力は劣化した自分達とは桁が違う。魔物なのか疑うぐらい真面目で素直な椿、しかし成長し、吸血衝動が目覚めた椿は泣いて恐怖のあまり震えていた。それをみた赤崎はひどく後悔をした。人として育てなんてしなければ、椿はあんなに苦しまなくて済んだのかもしれない。己の魔性を否定せず、受け入れることで闇の世界の住人として生きていたほうがよかったのではないか。
王子は赤崎から聞き終えるとにこりと笑い、悪戯っぽく言う。
「ふぅん、ザッキーって案外ご主人様思いなんだね」
「うっさいっスよ」
帰化した自分達のエゴを純潔の椿に押し付けないほうがよかったのではないか、今でもそう思う時がある。父や母や自分達のしたことが正しいことであったのか、赤崎には未だわからない。チキンでビビリでひたすら頼りない、吸血鬼らしくない椿がこの村で笑っていられるならそれはきっと正しい、そう願って。
「バッキーは幸せものだね」
うららかな午後、二人の名前を呼び駆け寄って来る椿の手にはバスケットいっぱいのクッキーがあった。
◆ ◆
剣の柄を握り、鞘から抜く。握っていなかったのにも関わらず左手にぴったりと馴染んで待ちわびていたようだ。細身の刀身、王子の剣として作られているが装飾は抑えられていてシンプルな印象が強い。彼のためにあつらえられたレイピアを携え構える、ふわりと風に舞った木の葉を一枚、振り下ろされた剣で綺麗に散った。傷も癒え、村越からの便りを受け取ってから迎えの使者を待つだけとなり、ジーノは剣の鍛錬を欠かさない。この村の敷かれた結界は住人に危害を成す者を惑わす力があるらしい。ならば、不届きもの達が訪れるのは使者を迎え入れるため結界が弱まったその時、必ず現れるはずだ。
やれやれと肩を竦め、帰るまでの苦労を考えていれば、一匹の大きな蝙蝠が王子の元へ手紙を携えてくる。ジーノが手紙を受け取ると蝙蝠はぽふんと土煙を上げ、少年へと姿を変えた。
「あの、コシさんからお手紙届いてました」
「わざわざ、ありがとうバッキー」
手紙を受け取った王子は剣を収め、封筒の中身を確認する。その時、手紙を持っていない右手側が少しだけ重みを増した。ジーノへと寄りかかる椿は寂しげで、ジーノもまた離れたくないのは同じだということを伝えようと空いていた手で彼を抱きしめた。髪を梳く手は優しくて温かい。
椿も王子を帰したいと思っている、怪我も治り、迎えの使者が来れば王子は元いた国でやらなければならない仕事がたくさん待っていて、王子は王の椅子に興味はないが人気があり、実力もあるなら彼の帰りを待つ人達だっていくらでもいるのだ。送り出さなくちゃ、思う気持ちとは裏腹に椿の心は苦しんだ。
沈んでいる椿をみて、どうにか出来ないかと考えたが帰れば留守にしていた間の執務や書類が堪っているだろうし、ずっと何も無い村にいるというのも娯楽やバカンスを好むジーノの性格としても難しい。一度、行けば簡単に戻って来られないことはわかりきったことだった。
「ふふ、悲しそうな顔されると離したくなくなるね、そんな顔してると攫っちゃうよ?」
連れて行って下さい、なんて言えたらどれだけいいのだろう。言えるわけもなく俯いてから悪い考えを打ち消すよう、頭をかぶり振った。王子に無事に帰ってもらうためにも結界の外にいる悪い人たちにはいなくなってもらわなければならない。
「……バッキー?」
「なんでもないんです、俺は大丈夫です。だから、心配しないで下さい」
ここは魔の森、そして椿は魔の住人たちのいる村の領主だ。
夜も更け、ふくろう達が鳴く森は昼間とは違い、先の見えない恐ろしさを含んでいるようにも思える。静かな闇の中を歩く人影は多い、マントで姿を隠してはいるが数は複数、緩められた結界から入り込んで来る。彼らが目指したのは王子がいるはずのある屋敷、気配を殺し、近づいていけば広場にぽつりと人影が見えた。ランプから漏れる灯りがジーノのシルエットを浮かび上がらせる。一人、また一人、ジーノが歩く度に彼らは増えていく。様子を伺っていた彼らが追いかけている獲物が動き、顔を確認してナイフを取り出した。見間違えるはずのない綺麗な顔立ち、白銀の鎧、鎧の下には海と同じ水色の衣服と金糸の混じったブーツ。
彼らは王子を取り囲む、今度は逃がさない。標的めがけ、距離を縮めると一気に手に持っていた凶器を振り下ろす。
「ーーッ?!」
彼らが貫いたのはジーノに似た影、空を斬った感触に飛び退けばその場にはランプと穴の空いたマントが一枚だけ。ガシャリ、音を立ててランプが地に叩き付けられ壊れた。周囲が暗闇へと染まり、次に押し寄せてきたのはキィキィと鳴く蝙蝠の鳴き声だ。それも一匹や二匹ではない暗い闇から大群の蝙蝠達が湧いてくる。
「ぎゃああああああああああ!」
「ヒッ、ひぃいいい!!」
例えるなら嵐だ、怒濤の如く押し寄せ全てを飲み込もうとする。事実、そこに居たならず者達のほとんどが蝙蝠の波に飲まれ、消えて行く。夜はそれを隠し、残った最後の一人まで逃さない。最後の一人は逃げようと一目散に走り出す、一匹の蝙蝠が彼の跡を追う。赤い、赤い、血のような赤い眼がそれを追う、迫り来る影から逃げようと必死で男は逃げた。男は駆けずりながらようやく思い出す、幼い頃、祖父母が寝物語として聞かせた。ある森、そこには人ではない者達が、魔の者達が住まう村があって迷いでもしない限り、決してそこへ行ってはいけないと。
もしも、邪心を持ち辿り着けば最後、彼らは人など丸呑みにしてしまうだろう。
「ーーーあ、」
ふわりと浮いた足下をみて自分が崖から飛び降りた事を知り、僅かな浮遊感の後、意識は途切れた。
谷底に落ちて気絶した最後の一人を回収し、村へとやってきた不届きもの達は全員残らず縄で縛られ気を失っていた。哀れな彼らを見下ろして赤崎は鼻で笑い、王子の迎えに来た使者達へと押し付ける気でいた。目を覚ました奴に邪眼で暗示をかけ、誰が指示したのかまできっちり白状させるのも忘れない。
椿といえば囮となった王子を庇い、奴らのナイフが掠めたのか、王子の綺麗な顔からぽたりと流れた血をみて我を忘れカッとなり、おびただしい数の蝙蝠の嵐を発生させた。出番を待ち構えていた丹波達からは「久しぶりに暴れられるかと思ったのに」そう言っていたのは黙っておこう。
赤崎自身も椿があそこまで怒り、本来の力を見せた事に驚いたのだから本人は相当だろう。何より驚いたのは怒った椿を冷静にさせた王子でもあるが、そこは当人同士の問題だ。今頃、何をしているかは、無粋なので聞かないでおこう。人の恋路の邪魔をするのは趣味じゃない。
ジーノに与えられた客室は広さはそれ程ではないがアンティークの家具や調度品を見てもどこも遜色なく美しい、手入れが行き届き、埃一つない部屋の贅沢な室内。真昼の陽の光の代わりに射し込むのは青白い月の光だけで広場の喧騒が静かになったのを感じて全てが滞り無く終わったのだと悟る。
「バッキー、もう大丈夫だから」
ぎゅうと抱きしめる細い背を宥めるよう撫でる、掠った傷口から血が流れた、それだけであの優しい椿があんなにも怒るなんて思わなかった、確かに傷がつくのは嫌だが別に女ではない。幸いな事にナイフには毒も塗られていなかったが思っていたよりも自分は優しいこの子を不安にさせていたのだろう。縋り付く手は震えていて、王子の肩に顔を埋めているせいか表情は伺えない。ぐすぐすと鼻が啜る音がして泣いているのだろう。ジーノが傷つけられて怒り、怒りのまま他人を傷つけるなんて不謹慎だけれど自分のためにそこまでしてくれた椿が愛おしく思えた。
「ごめんなさい、おうじのこと、すきになって……ごめんなさい」
「ボクは嬉しかったよ。ボクが傷ついてバッキーが怒ってくれて、それってボクのことが好きだからでしょ。
好きで、好きで、どうしようもないからなんだよね。ふふっ……可愛いね、バッキーは」
王子を、美しいあの人を壊す何もかも全てが憎らしく思えた。喰らい尽せ、壊せ、自分の中の魔物が急き立てる。まるで自分の中にもう一人の見知らぬ誰かがいて彼が椿へと命じる、殺してしまえと。特別な誰かのため、その力を振るえと魔物は囁く、誘われるまま、嵐を起こした。もしこの魔物が王子へと牙を剥いたら、綺麗な彼の白い首筋に歯を立てて血を吸い、体の隅々まで行き渡る血液という血液を呑み込んで屍を抱いて嗤っている、その涙は、抱いた感情が哀しみではなく歓喜だとしたらどうしようもなく怖い。
俺の牙はあなたを傷つけるための力じゃない、そう信じたいのに。
「おうじが、好き、なんです」
「うん、知ってるよ。ボクもバッキーを愛しているから」
愛している、なんて甘美な響きなのだろう。縋り付いた手に力を込めた、怖かった。人を好きになることがこんなに怖い事だと知らなかった、愛し愛されることは勿体ないぐらい幸せで嬉しい。恋や愛は素晴らしいものだとあらゆる人達が言うように椿もそう感じた。けれど、愛は綺麗なだけじゃない。
軋むベッドの上、不安と恐れから確かめるよう傍にいたジーノを見上げる。月明かりの下、笑うその人の顔はどこまでも優しく綺麗だ。灯りすら無い夜でも満月なら灯りは必要ない、最も吸血鬼である椿は夜の方がよく見える。夜の闇の中、絵画や彫像を思わせる彼の姿に魅入られているのはどちらだろう。
零れた涙を唇で掬ってゆっくりと唇へとキスをする、塩辛いくちづけは湧いた不安を沈めていくのにふさわしい、優しさで溶けてしまいそうだ。触れ合うだけのくちづけの後の王子の瞳はいつもと変わらない黒なのに、どこか余裕がないようにも思える。
「おれの、こと……こわく、ないんですか…」
「この世界にはね、バッキーよりもっとずっと怖い人間のほうが多いんだよ、
それにボクはバッキーになら殺されたっていいよ。そのぐらい好きだよ、バッキーが」
この人はなんてことを言うんだ、椿は潤んだ視界の中、喘ぐ。
最高の殺し文句、殺されてしまったのはこちらの方だっていうのに。
「おうじは、ずるい、です。そんなこといわれたら…おれ、調子に乗っちゃい、ます」
「調子に乗ってもいいよ、あぁでもどうせならボクの上に跨がってくれてもいいなぁ」
「え、そ、それは、ちょっと」
「あ、じゃあさ、ボクの血を吸ってよ。すぐ戻って来るつもりだけど半月はかかるかもしれないから」
今のうちにね、ジーノは椿へ吸血するよう薦める。いつもと変わらぬ気安さでさっき椿が起こしたであろう力を見ていたはずなのに。王子は衣服を緩め、椿へと白い首筋を晒した。何も怖くないよ、そんな顔をして。かなわないなぁ、そう思う。椿が怖がり恐れても王子は変わらぬ自由さで攫ってしまうのだ。
恥ずかしいが希望通り膝の上に座り、舌でまず頬を舐める、吸血鬼の唾液には痛みを鈍らせ傷跡を再生する効果がある。ナイフで斬られた直線を舐めて傷を消す。僅かに感じる錆び付いた鉄の味も椿にとってはワインのようなものだ。若い少年少女であればミルク、成年でも処女や童貞なら葡萄酒だと聞いた。
晒された肩口を辿り、白い喉元へと舌を這わせる。傷つけないよう肌を丹念に舐めては唾液で濡らす、石鹸や香水に混じって香るジーノの体臭を感じて心臓が嫌でも高鳴る。はぁ、と吐き出す息も熱い。皮膚が唾液で柔らかくなるのを見計らい、歯を立てた。
「……っ」
ぷつり、膚に穴を開ける異物感に息を飲む声が聞こえ、心の中でそっと謝罪した。
牙を伝って溢れ出る血を欲するまま血を吸いあげる。王子は食べ物に気を使うせいか、色事に慣れていても血は澄んでいて美味しい。処女や童貞のように長い間熟成された赤ワインのような重みのある味わいではなく、白ワインのような果実の甘さと香りに似ているのだが他の血知らず、酒も飲まない椿には王子の血はただ美味しいということしかわからない。
血を吸う椿の息遣い、切なげ表情と欲で濡れた瞳、熱い舌が這う度に煽られるジーノは黙って眼下の光景を眺め、理性が溶けて椿を楽しんでいた。牙が引き抜かれ、痕から溢れる血の一滴まで舐めつくし、満足げに王子の体に身を沈めたのを待って、椿をベッドへと倒す。
「おう、じ」
「バッキー、好きだよ」
軋むベッドへ押し付けられた椿は熱に浮かされたまま、舌ったらずな声で好きですと繰り返す。着ていた服を脱がし、シャツのボタンを乱暴に外し、自分が着ていた服もベッドの外へ脱ぎ捨てた。生まれたままの姿で互いに抱き合い、ボクもだよと耳へ直接、声を注ぎ込めば大げさなぐらい体が跳ねる。
淫猥な響きを聞いて、これで何も知らない無垢な体なのだから魔性としか言い様が無い。吸血を終えた体はしどけない、肌は汗ばみ、触れればしっとりとしていて心地が良い。何より香りが物凄く良いのだ、幼い子どもからするミルクっぽさでもなく、可憐な乙女達がつける香水とも違うあまい花の香。
少年というには成長し、青年というには幼い、細い肢体のアンバランスさ。まっすぐな割に毛先が跳ねる癖のある黒髪は額の汗で張り付いている。ジーノを魅了してやまない彼の黒く大きな双眸は涙で濡れていて、一体どこから涙が湧くのだろうか、そんな事さえ思う。
誰かを抱くことも、抱かれる事も知らない体を汚すのは自分だ。
吸血鬼の唾液に含む誘淫作用、そんな些細な物でこの衝動は説明なんてつかない。
「う、ぁ、あっ、やっ、おうじ……!そこ、さわらないで!」
愛撫するように体を手で撫でながら勃ち上がる彼を捕まえる、しっかり濡れ、こちらもまた涙を流していた。強張り逃げようとする体を捕まえて腰を抱いて、暴れた両脚の間に体を滑らせる。抵抗をさえぎるよう彼自身を握り込めば大人しくなった。怯え涙を流す彼にぞくりとする。
掴んでみてよく見れば彼自身を濡らしていたのは先走りではなく、もっと粘ついた精液だった。服を脱がした時にズボンと一緒に下着を脱がしてしまって気がつかなかったが吸血の後、たまらず達してしまったのだろう。随分と自分の血は美味しくてこの子を狂わせてしまうらしい。顔を赤くして視線を逸らした彼の顔には気づかれた、どうしよう、そう書かれていた。赤くなった頬へキスをして握り込んでいた彼自身を揺すってやる、たまらずいやいやと首を振って駄々をこねるよう抵抗するが主導権を握っているのはこちらだ。今日は絶対に逃がすつもりも見逃してやる気もない。
「やっ、やだっ、ひ、っあ、う、……おうじ、だめ」
「出してもいいよ、バッキーのイク顔がみたいなぁ。血を吸ってるときの顔もいやらしくて好きだけど、
バッキーが気持よくなっていやらしい顔して声あげて泣いちゃうとこもみてみたい」
「いや、やです、み、みないでくださいっ」
「見せてくれないとダメ、やめちゃうよ?いいの?」
ボクは別に構わないよ、意地の悪いことを言って握っていた手元を止める。先ほどまでの性急さに追い立てられていた椿は突然愛撫から解放され唖然と王子をみつめた。どうする、わざとそうして耳元へと息を吹き込んで耳朶を舐めれば、観念したように懇願した。
「………して、ください」
「うん?」
「お、おうじの手で、……おれのにさわって、…くださいっ」
握りこんでいた手が重なる、椿の手がジーノの手を誘導しているのだ。堪え切れずに王子の手を掴んだままやんわりと自身を揺する椿をいやらしいコだね、そう囁けば腰が揺れた。捕まえた彼を散々、揺さぶってぐちゃぐちゃと立つ水音を聞きながら快楽へ堕ちる体へキスを落とす。途中わざとゆっくり動かして彼の手で自分自身へと触れさせる、この行為で己がどれだけはしたなく淫猥なのかを自覚させるように。粘つく精液を濡れる手で掴ませてその手で扱かせる、濡れているのはカリや亀頭の部分だけではないのだと教えるようその下の睾丸を揉んでやれば、たまらなく甘く啼く。
「ほら、バッキーのココ、こんなに濡れて…いやらしいね、オナニーもした事なさそうな顔してるのにね」
「う、いや、やだ、……あ、ぅ……おと、たてないでくださっ」
「えー、たててるのはバッキーじゃない」
「ち、ちがっ……も、もう、でる、…はなしてっ!やだっ、いやだっ、あ、あぁっ!」
絶頂した椿が背を反らして腹とジーノの手を精で濡らすのをしっかりと視界に収め、王子は満足げに笑う。達した余韻でぼんやりしている椿の脚を開かせ、ベッドサイドから取り出した香油の入った瓶を取り出す。使うかもしれないからと赤崎に内密に頼んでいた品だ、装飾で彩られた瓶からオイルを取り出し、手の平で温めた後、太腿や腹部を辿り、溢れるぐらいオイルで満たしてから指で最奥へと塗り付ける。
これからその場所で解し繋がり合うのを何も知らないこの子は理解できただろうか、まだ意識が定かではないのか、ぼんやりとジーノにされるがまま香油の感触に体を粟立たせていた。吸血行為の後での絶頂を経験したのだから仕方がないとはいえ、恥ずかしがる椿を期待していただけに少し残念だ。無知な子どもにでもわかるよう体へ教え込めばいい、どこまでも意地の悪い自分が掠め、自嘲する。ぬらついた指で蕾をノックして指を侵入させてやれば、鈍い椿でも理解できたらしい。目を白黒させ、驚愕で声も出ないのかされるがままだ。その隙に指を奥へと進めていく。
「ふ、ぅ……」
異物感からか知らずきゅうきゅうと締め付られる、苦しそうなのがみて取れたが止めるには遅過ぎた。昂っているのは何も椿だけはない、指の本数を増やし解す動きから探るような動きへと変え、目当てのポイントを探す。柔らかい襞の中、硬いしこりのような前立腺をジーノの指が不意に掠めた。
「え、や、あぁっ、ーーな、なに・・?」
「あぁ、ココはね、男のコでも女のコみたいに気持ちよくなれる魔法の場所、かな?」
「あっ、んんっ、え、そんな、ーーヒッ、なんか、ヘン、そこさわるの、やだ」
「なんでだい?バッキーの中はすごく気持いいって締め付けてるよ?」
ジーノへ答える余裕さえないのか、喘いでは荒い息を吐く。解れたのを見届け、指を引き抜いたジーノは椿の細い脚の間に身を寄せる。指の感触にうねる襞を見下ろし舌舐めずりしてしまう、柔らかくなったそこへ宛てがった自身を押し進めた。ゆっくりゆっくり身を沈め、包まれる肉の感触を確かに感じる。息も絶え絶えにジーノを受け入れた椿は呼吸を繰り返し余裕さえない、今すぐにでも動き出してしまいたいのに、同じくらい椿を感じたくて触れるだけのくちづけを落とす、漏れる吐息すら愛おしい。幸福感に酔いしれていた王子を急かしたのは椿だった。
「おうじ、もっと……俺に、あなたを感じさせて、ください」
どれだけ勇気がいったのだろうか、広い背を抱いて両足で腰を抱き、ジーノの肩口に顔を隠している恋人の耳は思いきり赤くなっている、控えめな恋人からの大胆なアプローチは王子様の仮面をたやすく剥いだ。好きな相手に乞われどうにかならない奴がいたら賞賛するどころか、軽蔑するだろう。
性急すぎるぐらい乱暴に椿の中へ叩き付ける、ギリギリまで引き抜いて再び最奥まで深く埋め込む。香油で解れたそこは蕩けるよう気持ちがいい、きつく締め付けてはジーノを離したくないと襞が収縮を繰り返す。激しさから息を飲む彼をみつけ、先ほど掠めたしこりへと仕掛ける。細い腰を抱いて、短くグラインドするようピンポイントを突く。たまらず零れたあまったるい響き、繋がった場所から聞こえるはしたない水音、登りつめていくのは自分だけじゃない。快楽に乱れ、理性を飛ばし本能のまま貪って打ちつけ合い、名前を呼んで、愛してると叫んだ。体は互いの液と汗でどろどろになって果てる。
幾度となくキスをして、らしくなく貪る。飢えているのはどちらなのか。
彼の何もかもが愛おしくてたりない。
翌朝、王子は迎えに来た使者と共に国へと帰っていった。
静かになった屋敷で赤崎は相変わらずで「やっと帰ったか、清々する」なんて悪態をついていたけれど、思ったより寂しそうで、王子のいた客室はいつでも帰って来てもいいように綺麗に整えられている。誰もいないベッドに転がって思い出したのは去り際にした約束。
「今度はボクがバッキーを招待するよ。ボクがよく行く保養所なんだけどね、
温かくていいところだからバッキーもおいで」
きっとキミも気に入るよ、笑っていた王子を思い出して一筋の涙を零す。
「早く帰って来て下さい、王子。じゃないと俺、我慢出来なくて飛んでいっちゃいそうです」
夜の闇に紛れ、飛んでいったら彼はどんな顔をするだろう。窓から飛び込んで来た蝙蝠をみて笑うだろうか、王子のことだから気づかなくて追い払われるかもしれない、もし、自分に気づいてくれたならそっと人の姿になって、笑顔でからかう彼の腕の中にすっぽり抱きしめられてしまいたい。
語り継がれる吸血鬼が月の晩、降り立つのが美しい姫のもとなら絵になるのに、
どこまでも吸血鬼らしくない自分が訪れるのは誰より素敵で格好良い王子様だった。
◆ ◆
あの静かな村での日々から三ヶ月、長い政治不信と不況が続いていた大国ETUはようやく平穏を取り戻していた。後藤と有里が連れ帰った達海が王位継承し、新しい国王となると国は格段に良くなった。次々と斬新で新しい政策を打ち出し、古い重鎮達ではなく、若い人材の起用は国を支えてきた騎士達の地位を危うくしかねなかったが達海が与えた試練を彼らは乗り越え、国は一丸となり、良い方向へと向かっている。
国が安定するようになってもジーノは相変わらず気まぐれで会議や執務をサボり、バカンスへ出かけてしまう。
不在の部屋をみて村越は溜め息を吐いたが咎めたところで聞きはしないので好きにさせている。
以前とは違い、彼の行き先が今は一つに定まっていたのだから、むしろ良い方だ。
「バッキー、会いにきたよ」
「王子、おかえりなさい!」
森と山に囲まれ、人々の記憶からも忘れ去られてしまいそうな険しい場所にひっそりと在る小さな村。
そこが王子様と吸血鬼にしては臆病な恋人が待つ、優しい場所。
惑いの結界は彼一人のためだけにいつだって開かれている。