お題2:吸血鬼パロ

華倫様




 墨色の夜空を一つの影が滑るが如くに飛んでいた。夜空と同じ漆黒の被膜の翼を広げた蝙蝠である。
 蝙蝠は迷い無く、夜更にも関わらず集う貴顕の人々のさざめきを湛えた大理石の劇場へと向かい、何某かを心得ている樣に灯りの届かぬ露台へ舞い降りる。その形は手摺を越えるか越えぬか、忽ちの内に茫昧とし、陽炎の如く溶けたと思う間も無く、再び形を結んだ。夜気に溶けた訳ではなかった。然し、そこに居たのは蝙蝠等では無く、翼の色をその儘に映した盛装を身に纏った青年である。青年は白絹の手袋に包まれた手を伸ばし、露台と建物の中を隔てている硝子扉の桟を軽い仕草で押す。すると扉は意思を持っているかの如く恭しく開き、迎え入れんと出来た隙間から青年は悠然と入り込んだ。常人では躊躇うその場の灯りの乏しさは、彼には何の妨げにもならぬ樣であった。
 初めからその劇場内に居たかの樣に青年は足を進め、社交場としての機能を遺憾無く発揮するlobbyの人波に巧みに紛れ込む。敷き詰められた緋色の絨毯は立ち話をする人々の足を柔らかく受け止め、heliotropeは絢爛な綾綺のrobe decolleteeに艶を加え、且つ婦人達の膚理を匂い立たせる。天井から重々しく釣り下がったcrystal-chandelierは晧々と光を溢し、各人が身に佩びている貴石宝石を輝かせている。だがその光とて人と人との体の間、亦その足元に生まれた影までは払えずにいた。緋色の絨毯の上に踊る影は暗赤色の雲翳となり、人の挙措に合わせ蠢いている。
 光と影と居並ぶ男女の中を青年―ジーノは巧みに游ぐ魚の樣に歩み、ゆるりと視線を巡らせる。途中、客を待つ高級娼婦―demi-mondaineを装い乍ら逆に男を品定めしているSuccubusを見掛け、含み笑う。不図、己に近い気配を察したか、目の合った彼女は、貴方とて同じでしょうと小首を傾げて笑み返してきた。肯定の意で肩を竦めてみせたジーノはお互いの邪魔にならぬよう彼女の視界から移動し、軈而壁の花となって所在無げに佇んでいる妙齢の婦人を見付ける。場に慣れぬ不安からか婦人の口許には笑みは無く、溜息ばかりが零れている。高く結い上げた髪の下、眞珠の聯珠で飾られた細い首にジーノは目を眇める。清楚な光を弾く眞珠にも負けぬその肌膚の下を流れる眞っ赫な頸血を思い、極めて女性に好まれる鮮麗な微笑を唇に乗せ、壁際の女性へ向けて典雅な足取りで相手の退路を断つ樣にジーノは距離を詰めて行った。


 *


 社交場としての劇場に配置されているlobby近くの密談密会用の控室へ婦人を誘い込み、意図した通り、騒ぎが起きぬ爲に相手を殺さぬ程度、且つ己が口腹の慾を治める程度に食事を済ませたジーノは、往路と同様、復路も滑空する樣にして帰城した。城は森―潅木と喬木が鬱蒼と茂る―の中にある。この城はただ真直ぐ地面を歩いていれば辿り着ける、と云う類いのものでは無く、巧妙にジーノが他の者を排除しようと施した魔術の結界の中にある。その城の、ある一点へ向けて飄然と降りていく。闇は一層深くなり、払暁までは未だ暫らく時間があった。
「帰ったよー、寝室の準備は出来ているんだろうねぇ?」
 黒絹の外套を無雑作に放り乍ら、ジーノは回廊を靴音高く進む。窓には厚い緞帳が掛けられ、昼夜の別を城の内側へは知らせた事は無い。爲に、等間隔で妖灯が燈され、その蒼白い光が物憂げに揺れて綴織の絵柄を物々しく照らしていた。主の帰城の聲を聞き付け、少し慌てた仕草で外套を拾った男がジーノに追い付いて来た。短髪の、目付きの鋭い男である。
「しましたよ。つか、その辺にポイポイ脱ぎ捨てんの止めてくださいって云いましたよね!」
 拾い集めんの俺だからの嫌がらせですかと憤然とし乍らも、ジーノが後へ向けて放った上衣やtieを逃さぬ樣に次々に空中で素早く掴む。
「うるさいなぁ」
 廊下を前進していたジーノは右足を軸に、飜然と体重等無いのではないのかといった軽さで身を返し、後を付いて来る男の鼻先に左の示指を突きつけた。男が蹈鞴を踏んで急停止する。
「だいたいこのボクの領地に勝手に足を踏み入れた時点で本来なら問答無用で八つ裂きなのに君が他でも無いタッツミーの所のお馬鹿さんだって分かったから寛大にも百歩譲ってやって罰として労役を課す事で勘弁してやっているのに勘違いするんじゃないよこの肩の上についているのは頭じゃなくて飾りかいそんな使えない飾りなら今直ぐ蹴飛ばしてやろうか」
 ジーノは一息に叱責した。損なわれた機嫌で眉根がくっと顰められる。
「ザッキー」
 呼ばれた男はジーノの不興顔を目の前にし、息を詰まらせたかの如き顏をして押し黙った。ジーノは男の苦言を聞き流す時もあれば今の樣に癇に障ったのだと発言する時もある。数拍、空気が冷たくも焦爛したかと男には感ぜられた。
「ははッ」
 不意にジーノは哄笑すると再び身を返し、廊下を歩み始める。笑われた男は咄嗟に反応出来ず、ぎこちない動きで肺を動かした。
「何も殺してやろうかなんて云ってない、蹴飛ばしてやろうかって云われた位でこの世の終みたいな青い顏をして、案外小心なんだねぇザッキーは!」
 じゃ、ボクが起きるまでは仮令この世が終っても起こすんじゃないよと告げてジーノは寝室へと入って行った。
 呆気無く怒りを収めてくれたのか、単に戲弄されたのか。機嫌の良し悪し、喜怒の際の判別が難しい相手に突っ掛かっていく不利に、ザッキーと望んでつけられた訳では無い愛称を呼ばれた男は鋭く舌打ちすると階下へと引き返した。階下の所謂、人の城では召使部屋とされる区域になると壁を飾る綴織は一枚も無い。剥き出しの儘の石面が続き、その間に質朴な作りの扉が幾つか遠近に配置されている。外套を腕に抱え
、その内の一つを開けると中から自分を呼ぶ聲に、知らず俯き掛けていた顏を上げた。
「なぁー、あかさきー、俺らホントに帰して貰えると思うかー?」
 寝てしまわずにジーノの帰城を待ち、一晩起きている事が出来たらしい。背凭れの無い椅子に浅く座り、木目がくっきりとした天版の大きな作業台にうつ伏せている小柄な上半身から、ただ目を開いていただけであると云う事も赤崎には分かる。少々そそっかしい彼としては己が性格からして迂闊に動けば危ういと感じているのやもしれなかった。その彼の黄褐色の髪が開いた扉の方へと振り返り、苛立ち混じりの溜息を吐いた後、頭蓋を横にした儘視線だけを赤崎を向けた。
「カントクは“アイツ、飽きっぽいから直ぐに「帰っていーよ」って云うから。ダイジョーブ。それ迄気楽に奉仕作業やってきなさいな”ってさぁ……、全ッ然飽きないじゃんッ! 何時迄こき使われちゃうのかなぁ、もう、帰りてぇ…自由に森中走り回りてぇ……」
 部屋に入ると赤崎は衣紋掛に外套を吊るし、埃を払い落す爲の刷子を手に取る。外出に際して寸時でも待たされる事をジーノが嫌う爲、却歸の直後に予め手入れを済ませてしまっていれば余計な不興を買う事は無い。
「…種族が違うってのがあるんじゃないんですかね、時間経過の感覚に俺らとは根本的なズレがあるんでしょう」
「えー」
 何だよソレと椅子に腰掛けた儘、世良は子犬が愚図る樣に手足をばたつかせて納得がいかぬと示した。
 赤崎は世良の地団駄を横に手早く刷子を掛け、幾度か目になるか、己等の族―人狼とVampireの差異に考量する。人狼は森に生の基を置く、森に属する族である。一方、Vampireは夜に属すると謂われている。夜に属すると云う事は、夜に付随する諸々の魔が膝下に有る事である。故にVampireは強いのだと赤崎は聞かされた。人狼とVampireでは抑も強さの質が異なる故単純に比較は出来無いだろうが、と赤崎は思考を進め、そうであったとしても、ジーノが内包するVampireとだけ説明するのみでは足りぬ得体の知れなさに本能的な薄気味悪さを覚え、警戒せぬという時は無い。
「はぁ」
 手足をばたつかせて気が紛れたのか、世良が溜息を吐いた。
「もちっと待ってみるかー…。滅茶苦茶こき使われちゃうけど、思えばカントクの云った通りマジでヤバイっつーのは、全然無いもんなぁ。……何か、そういうとこはきちっとしてんのな、あの王子樣」
 それ終わったらもう俺らも寝ようぜと促す世良に、赤崎も睡眠を取る事には同意した。


 *


 森は深甚且つ廣遠としている。椿はその果てを未だ知らぬが、己が知らぬ事に対して屈託を覚えた事も無い。今、己が居る森の中の事ですら知らぬ事の方が多く、従ってそちらまでは思いを致すに及ばぬと云った方が正しいのであろう。
 椿にとっては、己が身の状況に慣れる事が目下の課題であった。生来気の弱い所のある椿は何事につけても躊躇が先立つ事が常で、群の勝手が未だに飲み込めず何時も大小數々の失態を仕出かし、先輩儕輩を度々煩わせている。何某かの理由はあったのであろうが独りにされ、これから如何しようかと途方に暮れていた椿を、何故魁帥の達海が己が群に椿を加えて遣ろうという気になったのかについては推し測る術は無い
。達海は最低限の決まりだけ教えると後は己の頭で考えて行動して構わないという曠達で懐深いのか、ただ放任なだけなのか、兎角掴み所の無い魁帥である。何にせよ頭がそうであるからか、畢竟、皆、若輩の椿の失敗に厭きれたり邪険にしたりと云う事は無く、却って椿は如何にかせねばならぬと気負いを募らせている。
 然し、そう気負ったからと云っても上手い事結果がついて来ぬのが椿の椿たる所以で、今日も今日とて茲数日の己がしてしまった失敗を懐抱し、鬱陶として独り、皆の輪から外れていた。当ても無く遊歩する事暫しの間、己の裡で痞え続けているそれ等を最低限納得して呑み込める迄は、爭何か皆と顏を合わせることが出来ようかと俯く。
 愀顏の椿がとぼとぼと歩き続けていると、緑の木々の間に赧い花をつけた潅木がぽつりと一本立っているのを見つけた。
 花は下―稀に横―を向いて瓣を開いており、一つとして上を向いているものは無い。沈鬱であり乍ら、深思を廻らしているかの樣な窈姿をしている。
 椿は須臾の間足を留め、その幽夢の樣な赧を眺覧する。
 何か、恐いけれどとても奇麗だと、椿は近くでもっとよくその赧い花を見ようとして歩を進める。何故と怪しみを爲す事も無く、己がくよくよと塞いでいた事も頭の中から消歇した。
 徐に数歩進み花を目前にして、忽焉、慄然と椿は全身を震わせた。ざぶりと水面に身を飛び込ませた時と同じ感覚が皮膚の上を走った。だが、水面は横に平らなものであって縦に壁の樣にあるものでも無い上、この場に一滴の水がある訳でも無い。従って体が濡れたという筈も無いが、冷水に触れた時と同じ樣に肌が粟立った。此処は矢張り恐い場所だと本能的な脅息に駆られて踵を返すが、たった数歩であった向こう側
―としか云い樣が無い―が、如何謂う訳か無い。
「あれッ?」
 無い、と云うのは語弊があろう。椿が立っているのは、黝黝と暝い、見知らぬ森である。目隠しをされて何処かへ運ばれ、其処で独り放り出された状況と云った方が適当であるように思われた。蒼然となって辺りを忙しなく見回した椿の脳裏で、軈て魁帥の達海の“いいつけ”が蘇る―「森は広いが、それぞれに縄張りを持つ限り、互いの縄張りの境界線が接する處が必ずある。それでな、或る箇所に変わり者の塒があんだよ。目印はあるからさ、そこから先へは進まない方が無難だぜー?」
 椿は難唾を呑んだ。とんでも無い事を己が仕出かしてしまったのだけは明確で、達海を始め皆に向けて只管に心の中で詫び続けた。


 *


 赤崎と世良は自分達の今日の食事内容をどうするかの即事的な話をしていた。ジーノは外で食事をしてくる―Vampireだからだが―故、その用意や給仕の必要が無くてよかったと二人共に抱懐している。假にあったものならば気難しい彼の不興を毎日買っている所だと想像するだに背筋に氷塊を落された気分になる。とは云うものの、ジーノの蓊蔚とした森の領域には余所者が立ち入れない爲に鳥や兎や宍の類いは豊富にいて、その点に於いては此処は至極快適な所だと思っている。
 其処へ忽如、苛立ちを隠さぬジーノがやって来た。柳眉を釣り上げ、冷たい聲で告げる。
「何か入り込んだ」
「え?」
 世良が瞠目する。
「如何したんです?」
 怪訝そうに眉を顰めた赤崎が説明を求めたが、ジーノは無言の儘身を翩然と翻して“何か”の居る場所へ向かう。憤然として蒼白く見える顏から凄惨な予想を導き出した赤崎はそれが現実になる事には少々同意出来かねず、世良を振り返る。
「追い駆けましょう」
 赤崎の険しい顏を見、世良は頷く。
「俺らの足なら王子より速い」
 場合によれば、と赤崎は考え、また達海に自分達の事で手数を掛ける事になるやもしれぬと息を吐いた。
 颯然とジーノは城から出、己が占有する領域の森を進んでいる。
「ザッキーとセリーで捕まえてくれるのかい?」
 背後に追い付いてきた二人にジーノは皮肉気に問うた。
「そのような、そうでないような…」
 世良は頭を掻き乍ら、言を濁した。
「ボクの邪魔をしたら、タッツミーに叱ってくれるよう云い付けるよ」
「うーん……」
 困惑した聲を出しつつも、ジーノの後に続く二人は速度を緩めなかった。
 そうしてジーノが“入り込んだ”と云い示した場所に近付いたのであろう、莽蒼とした木陰と茂みの中に見えてきた人影へ向けてジーノが断罪の聲を当てる。
「ボクは招かれざる客は大嫌いだよ」
「椿!」
 ジーノの言葉と赤崎、世良の呼號が重なった。
「! 世良さん! 赤崎さん!」
 暫らく見ていなかったが旧知の先輩二人の顏を見、安堵したのか椿は弾んだ聲音を上げた。
「よかった…、俺、またヘマ仕出かして、迷子になっちゃって……」
 這う這うの体で駆け寄って来る椿は二人の傍らに知らぬ顏を見て足を止め、訝しげに首を傾げた。
「…えっと…?」
 頭痛を堪えるかの樣に蟀谷に手を添えたジーノが微苦笑している。機嫌は、揣度出来ない。
 素早く椿の両側に立った二人が椿の脇腹を肘で突付き、早く名乗れと小声で窘める。急かされた椿は訳の分からぬ儘に名を口にする。
「つっ、椿、です…」
 尽かさずもう一度、傍に立つ二人から脇腹を突付かれる。頭を下げる可きかと椿は思い到る。
「はじめまして…!」
 音を立てそうな勢いで身を折った椿の頭を見下ろし、ジーノは世良、赤崎の樣子からこれも達海の下に居る者かと察しをつける。達海の遣り樣は其れなりに把握している積りだが、と窃かに溜息をついた。
「うん。バッキーね」
 世良の樣な時に軽忽と思える程の向こう見ずな気負いも無く、赤崎の樣な賢しらな怜悧さも無い。況してや達海が持つ世慣れた獪猾さ等微塵も無い。途惑い乍らもジーノを見詰める黒目勝の双眸は稚けなく、ジーノは不虞にも毒気を抜かれた樣な心地がした。その上で改めて見れば、達海と似た類いの、族の濃い血の系譜を持つ者所以の濃密な血の馥気をはらんでいる事をジーノは嗅ぎ分けた。だが、ジーノは内心とは全く異なる言葉を口にした。
「素朴でいいよ」
 莞然と脣を吊り上げるジーノの優美な樣に、世良と赤崎は一樣に背筋の強張りを解き、椿はさっと頬に朱を刷いて狼狽した。
「王子の犬としてよく勤めるように」
 己の容貌が相手の感情に如何なる作用を齎すのか、ジーノは解會している。思った通りの反応が返れば、それはそれで自尊心に適う。素朴と云うよりは、淳朴、樸實な気質である樣に取れた。
「そうだ」
 徐に世良が年下の二人を振り返る。
「メシ、どうするかって話をしてたんじゃん、俺ら」
「ああ」
 赤崎が椿を見る。
「当たり前だが…、自分の食い扶持は自分で何とかするんだぞ?」
「! ウスっ」
 椿は緊張の汗を浮かべ乍らも、しっかりと頷いた。
 どうもこの儘三人で獵と云う算段の樣だと、ジーノは興に触れ、歩き乍ら指図を出す赤崎と距離を空けて間合いを計る世良と自信なげに二人を見比べる椿の後に付いて行く。
「? 付いて来ても別に楽しい事なんて無いと思いますがね、王子」
 鼻筋を顰めた赤崎の胡散臭いものを見る樣な険しい目付きに対して、ジーノは?興は逃さぬとばかり朗々とした笑い聲を上げる。
「ボクにとって楽しいか楽しくないかは、ボクが決める事だよ!」
「……、御勝手にどうぞ」
 赤崎は短く云うと、椿にお前が主に走れと指示した。
 赤崎を支点に左右に世良と椿が披けて位置し、足音も立てずに進む。ジーノはその稍後ろに付き、悠々と歩いている。
「雉」
 つい、と赤崎が或る茂みの陰を指した。目の周囲が赤く長い尾羽に縞がある。雄鳥である。
「今日は雉肉だー」
 あっけらかんと世良は云い、両腕を万歳の形に挙げる。
 そこからの動きは早かった。何も言葉が交わされぬ儘、世良が聲を出して勢子の役をし、赤崎が一定の方向へ追い込む役を勤める。気配に気付き逃げようと翼を羽ばたかせて頡と飛び出した雉に、瞬刻の飛走で猝然迫った者がいた。
「! うわッ」
 けたたましく鳴いて力の限りに羽をばたつかせる雉を、慌て乍らも椿は両腕の中へ抑え込んだ。
「やったー! 雉肉雉肉!」
 小躍りする樣な足取りで椿に寄る世良に対して、縄代わりに枝に絡んでいた蔓草を手繰ると気絶させた雉の両足を縛す手際良さを赤崎は見せる。抜かりの無いのは、周到な性質であるからか狷介な性質であるからか。
 だが二人を差し置き、ジーノは椿が見せた躍々とした趨蹌に興がる。森の中を疾走する美しく俊敏なDaphneを思い、然しDaphneは河神の娘で追いかけたのは太陽神、椿とVampireの己では抑も懸隔して馬鹿々々しいと思い直す。
「うん、猟犬だね」
 ジーノは独り言ちた。憖か飼い馴らせるものでも無い族である事は知悉していたが、猶爲し得たならば眞に愉快ではないかと目を細めた。


 *


 天に月が浮いている。上空では風が流れているのか時折雲が娥影を遮り、夜陰の濃淡を木陰や地面に滲ませている。城に戻って後、自室で休んでいたジーノが中庭に出て来ていた。その傍らに、ジーノが腰掛ける爲の椅子を運ばされた椿が立って居る。
 椿は若しや一つでも物音を立てれば叱られるのではないかと竦動とし、その樣子をジーノは寛いだ態度で諦視している。
「……さて」
 足を組替えたジーノの口から何と言葉が発せられるのか、椿は耳を欹てる。世良か赤崎か、それとも二人共にか、何か吹き込まれたかなとジーノは感慨も無く察したが、だからといって己について云う事等何も無く、積りも無い。
 つい、と弓手でジーノは己が背後を指差した。
「この中庭の泉は決して汚さないように」
 有無を云わせぬ深沈としたジーノの聲音と白く端正な指先を椿の射干玉色の双眸が辿り、闇の中で淙々と音を溢す先を見遣る。冽泉は四方六尺程か、滾々と絶え間無く湧出る水で漣が起きているのであろう、水面は月光を粲如と弾く。緩やかに広がる漣猗に従い水汀へ視線を移すと漂亮たる女神像がひっそりと佇立していた。纏う裳衣は漾漾と長い。然し、女神と云うには何処か蠱惑的で妖しいようなと疑義を覚えた椿の
耳朶に、ジーノの聲が届く。
「二度は云わないよ」
 月明かりの許、冶容に笑んだジーノの唇の形が像の唇と酷似している樣な気がした椿は瞿然とする。
 そこで己はきちんと応えを口にしたか、せぬ儘に踵を返してジーノの前を退いたか。それが椿には判然としなかった。ただ恐ろしかったと云う単純なものでは無かったのであろうと思う、これが椿の精一杯顧みての所懐である。


 *


 ジーノは己の城が随分賑やかになったと、蹙然として居室の榻に腰掛けている。
 世良と赤崎の二人の時にはこうではなかったではないかと、窓、扉を閉めた居室にまで届く譁然とした聲に怏々と腕を組む。三人揃えば姦しいと云うが、人狼も然くあるらしい、狷狹な処のある赤崎でさえ矢張り群で生きるものなのだなと皮肉げに思う。さても己の支配する裡許は決して苑囿なぞでは無い。況してや自分は皆で集聚って面白楽しくと云う柄ではない。
「……どうしようかな……」
 独語し乍らもジーノは対処を決めていた。


 *


 陽は沈んだが、その残光が未だ空を赤くしている。
 応接室のドアを開けたジーノは機嫌の良さそうな顏をしており、世良は手招かれる儘に付いて来る。
「……あのぅ、王子? 俺、掃除してたトコなんですけど…」
 卓上や台を拭っていたのであろう、布片を手にした儘の世良が云い難そうに口篭る。
「そう?」
 歩く二人が廊下の燈火と擦れ違えば火が揺れ、影が不気味に伸び縮みする。世良は首裏が薄寒い気がした。
「ドコへ行くんスか?」
 背の高さ故か、歩幅の違いに、世良は僅かに小走りになる。
「中庭」
「な、なんで…?」
 ジーノは振り返らず、答えず、只、世良に早く来いと手を挙げ、指を揺らす。
「え、えぇー……」
 言葉に出来ぬ不安に顏を顰め乍らも、世良はジーノの後に諾々と従い、熏夕の中庭に向かう。
 その奇妙な二人連れに、向かい側の棟に居た赤崎が気付き不審に思い、追い掛ける。
 赤崎が中庭に到着したその時、丁度、ジーノの手が世良の背を軽く押し、世良の小柄な体がいとも容易く泉の中へ落ちてゆく。
「ギャー!」
「王子! 何してんスかッ!」
 派手な水飛沫を上げて世良の身が泉に呑まれた。
 何と悪質な戲弄かと、赤崎は泉の際に走り寄る。
「随分、淹留させていたからね。まぁ、御役御免?」
 事も無げに云い放ったジーノを警戒し、背を見せぬよう赤崎は身構える。
「俺や椿にも何かする積りなんスか?」
 質し乍ら、浮かんで来ぬ世良の身体に気を揉む。
「まさか。バッキーは猟犬って決めたからね」
 それは俺には何かするって決めてると云う事じゃないかと、赤崎は内心毒づく。含む處がある樣に嗤笑するジーノを赤崎は睚眦するが、ジーノは別段痛痒を感じているふうが無い。
 ジーノは攸然と唇を開いた。
「ある伯爵がみなで獵をしている最中、他人の猟犬を盗んだ。猟犬を盗まれた事に気付いたその貴族は伯爵を訴えた。すると伯爵は盗みの罰として、一切の公式の場への出入りを禁じられた」
 赤崎は訝しく思い、眉を顰めた。
「伯爵は別に死刑になった訳じゃない。でも貴族としては致命的だね、公人としては抹殺されたんだよ。生きているけれど、何処にも出席出来無いない、顏を出せない」
 ジーノは気の毒ぶった表情で浩歎してみせた。
「わかるかい? ヒトの猟犬に手を出すと云う事の意味が」
 ただの犬と猟犬では、猟犬の価値の方が遥か上位にあると云う事だろうと、赤崎はこんな焦眉の事態でも悟りの良い己の頭に咄呵した。
 背後には何故だか体が浮いてこぬ中庭の泉があり、身構えて固くなり過ぎ、却って隙があったのかと数瞬後に赤崎は後悔する事となる。
「じゃ、タッツミーに宜しく」
 ジーノは何気無い仕草で左腕を伸ばすと、赤崎の肩を柔らかく押した。
 赤崎は自分が背から水の中へ落ちてゆく感覚を驚愕の中で味わう。そうして己の四肢がざぶりと水面を叩く音を耳が拾った後、視界が水で揺らぐのを見て完全に体が水に漬かった事を知る。揺らぐ視界の先でジーノが赤崎の肩を押したその手を振り、別離を告げている。ジーノの居る場所とは別の水際に上がれないかと頭を巡らせると、一体の女の像が水の中へ落ちた自分を無邪気に覗き込んでいる。少なくとも赤崎には
そう取れた。水面に出ようと水を掌で掻いたが、浮かぶ樣子が無い。掻いた分の水が縦横にうねり、目に映る景色が歪む。その所為か、女の像が非道く酷薄に笑んだ樣に見えた。その女の顏に赤崎は、Undine―魂を持たぬ水妖かと俄かに気付き、慄然とした。性質が悪過ぎると思ったが、それでも赤崎は白い泡沫が盛んに渦巻く水を掻き続けた。
 一方、落ちた二人の行く先を知るジーノは泉の淪猗が治まるのを待たずに踵を返した。どうせ達海が直ぐに気付いて二人を回収するだろうと、大して気にもしていない。
 夜気が四方に満ちようとしていた。僅かであった残照も最早無い。
 居室へ戻ろうとジーノが妖燈の点る回廊を歩いていると、心細そうに顧歩する椿と出会う。ジーノが足を止めると、椿は迷い犬の如き弱りきった顏をし、ジーノから計った樣に三歩離れた位置に立ち止まった。
「赤崎さんと世良さんは…?」
「長い間、御苦労様って、タッツミーの處へ帰したよ」
 ジーノは暢敍と答えた。隠す事等何も無い。
「?!」
 吃驚して蒼褪めた椿の顏にジーノは含笑する。自分は帰して貰えないのか、世良と赤崎の二人が居らず自分は勤められるのか、うまく遣れる自信等ちっともないのに、そういった類いの事が忙しく椿の脳裏を廻っているのであろうなと掌の中を見る樣にジーノには解かった。


 *


「うわッ!」
 必死で水を掻き続ける間に知らず目を堅く閉じていたらしい。突然、赤崎は喉に吸気が入り、刮目した。
「あ?」
 川に腰程まで浸かっている己に気付き、動きを止めた。
「赤崎ー」
 川岸に目を遣ると、全身ずぶ濡れの世良が情けない笑みを浮かべて手を振っている。赤崎は慌てていた己を決まり悪く覚えた。
「おかえり、赤崎」
 そこから稍離れた岩の上からも悠長な聲が掛かる。赤崎が見上げると、相変わらず人の悪い笑みを浮かべた達海が姿勢悪く背を丸めて座っていた。胡座の両膝にそれぞれ両の肘をつき、上体を支えている。
「王子サマんトコには、ウチのがもう一匹、居る筈だよなぁ?」
「椿っスか?」
 ざぶざぶと?流を横切り乍ら赤崎は答えた。
「その辺に浮き出て来ないんスか?」
 世良のいる岸へ上がり、赤崎は髪から額へと滴る雫を上腕で拭うと僅か乍らの可能性を思い、川の中程を振り返った。然し、川面は夜空を映し黒々とうねっている。
「お前で仕舞いだよ」
 達海は肩を竦めてみせた。赤崎は鋭く舌打ちすると、達海へ向き直る。
「“猟犬”がどうのとか云ってましたよ」
「ふーん……」
 洒脱に片眉を上げた達海は、腑抜けた、何とも気の無い聲を出した。それ以上何も云わない。
 世良と赤崎は、達海の偽惡趣味がまた出たと同時に思った。


 *


 此処でも全く上手く遣れていないと、椿はジーノの城に来てからの己の所行を思い返す。割ってしまった陶磁器、傷を付けてしまった調度品の数毎に胆が炙られる心地がしたが、如何いう訳かジーノは己が器物が損われた件で椿を叱責した事は一度も無かった。精々、眉を動かし肩を竦めるか、溜息をついて如何すれば良いかの指示を出すか、その程度である。そうであるが故に、ジーノの落胆に似た表情や仕草に椿は気
を揉み、非道く焦思する。
 居室に入って来たジーノは花卓を睇視すると椿を指先で招いた。
「取り替えて」
 長い睫毛が伏せられ、白皙に落とされた翳が機嫌の降下を示す。花瓶の花が気に入らぬのである。
 椿は?若として花瓶から橙色の花を退くと、卒々として表へ出た。何色が良いかなど直ぐには察せられぬが、急がねばならぬ事だけは熟悉しており、二本の脚でうろうろと惑い歩く効率の悪さを避けようと椿は咄嗟に閃いた。
 漸うして居室に戻って来た気配に、安楽椅子で踞牀し膝の上で気紛れに蔵書を繰っていたジーノは頁を閉じる。伏せていた視線の内、足牀の上へ淑やかに花の束が置かれた。
「…王子?」
 怖ず怖ずと意向を窺う椿の聲音に、ジーノは己が挙措をひたぶるに受け入れる従順さを見、身の裡の驕恣が満足するのを覚えた。
「“白花冷淡にして人の愛する無き”か」
 ジーノは腕を伸ばして拾い上げ、摘まれたばかりの花の瑞々しさを愉しんだ。
「人間が愛さない花ならばボクが愛でよう」
 傍らの花台に置かれた花瓶の壺口へジーノは花を放り入れる。花瓣が驚いた樣に揺れた。
「で? バッキー、その姿なのは慌てているからかな」
 榻下を見下ろし、ジーノは竊笑する。その樣子を見上げる椿は、揺れる白い花とジーノの白い面貌に周章した。ジーノの機嫌が良くなり胸を撫で下ろせたのだと云う事を横に、短い黒い毛に被われた頭の上の耳を伏せた。疾走した所爲では無いと思われる動悸が胸郭を打つ。四つ足を揃えて坐ってみるが、尾は所在無げに揺らしてしまう。
 花を摘んで戻って来た椿は、髪がそうであった樣に毛並みは漆黒で、金色の月のような虹彩に黒眞珠の如き瞳睛を持っていた。骨格は整っており、若い故か肉叢はそう厚くはなく、柳の若木の樣にすらりと細い。その未完成の如何にも幾い具合が却って美しいとジーノには襟懐せられた。
 ジーノは膝の上の本を見台へ移し、手を椿の頭へと遣った。椿の耳がぺたりと顱骨に添い、心底驚いている事が如実に知れた。
「王子?」
「よくできました」
 擽る樣にジーノの指が椿を撫でる。
 椿はしばしばと瞬きし、悦色を浮かべたジーノの秀麗な顏を凝視した。そしてこの姿でなければこうもジーノの顏を凝っと眺める事等無かった自分の臆病の根深さを頓と知った。ジーノと相対する事で己の“かたち”が自覚出来る、それは椿にとって新
鮮な事であった。
 邇來、ジーノは時折、椿の狼を求めた。


 *


 幾度かの虧盈を経た或る更夜、椿は中庭に椅子と小卓を運ぶように云い付けられた。細い星明りが銀針の如く夜闇の空を刺している。
 件の泉の滸に設えた小卓の上に燭台を置き、椿は手燭から灯りを移す。朧々と点る灯りは闇の中に寂然と揺らめいた。
「おや」
 弓手に金の水瓶を、馬手の指に足の長い水晶の杯を二つ絡め持ち、優游とやって来たジーノが聲を上げる。
「バッキー、君の椅子も持っておいで」
 卓上に並べられる杯を見、椿は慌てて身を返し、走る。
 直ぐに簡素な背凭れの付いた椅子を運んで来た椿は、さて、この椅子は何処へ据えたら良いものかと椅子を抱えて躊躇う。その椿の樣子を睇眄し乍らジーノは泉へ寄り、容與に膝を付いて水瓶に泉の水を汲む。
 立ち上がったジーノは、椿がジーノの席に正対するように椅子を置いた事に眉を動かした。その位置は椿の心裡にあるジーノに対して抱く何某かの感情の動きの表出なのであろうと推度せられた。然し、自分で据えたものの椅子の背凭れを握り、本当に着席してよいものか否か俯伏し逡巡している椿は常の儘だなとジーノは苦笑した。
「バッキー」
「! は、はい…」
 瓶を卓上、燭台の隣に置いたジーノは棒立ちする椿の額髪に馬手の指を伸ばした。
「お座り」
 漆黒の毛先を擽る樣に梳き、離れる白い指先に椿は僅かに意識を奪われ、告げられた言葉に反応が遅れた。双眸を瞬かせた後、木偶の如き動きで椅子を引き、腰を下ろす。その己の醜態に椿は羞赧し、窃かに真向かいに座るジーノを偸視したが、ジーノは椿の挙動が些か怪しい事等抑も気にしておらぬ樣で、椿は更に頬が熱を持つのを覚えた。膝の上に置いた手を握り締める。
 錚錚と水瓶の中で氷が触れる音が響いた。泉の水は冷冽で、当分の間氷は融ける事はないであろう。夜の中庭で燈火に濡れる金瓶がジーノの手で傾けられ、二つの杯に注がれる。
 冷水を満たした杯がジーノの手で椿の前につい、と勧められた。水晶の杯は燭台の灯りを水に透過し、水は燈火の色を綺羅と弾いた。椿は、目の前の杯と内心を窺わせぬジーノと中庭の泉と、視線を困惑して彷徨わせる。椿が知って居るのは、ジーノが泉を至極重要なものとしているらしいと云う事のみである。そのジーノが泉の水を己に饗する理由は検討も付かない。
 湎然と両の手を膝の上から動かさぬ椿を眺め乍ら、ジーノは己の杯の縁を脣吻に当てた。ひやりと唇の薄い皮膚を冷やされる感覚を味わい、口腔に水を満たす。舌を冷やした水はするりと喉を降りていく。ジーノは音も無く杯を卓上へ戻した。
「バッキー」
 然程大きな聲でも無いが、小さくは無い聲でジーノが呼んだ。ジーノが何を云うのか、その顏を凝っと見る爲に向けられた椿の顏が緊張し、弱気な幼さばかりの黒目勝ちな双眸が、この時には深い真摯な色を見せる。ジーノはその眼睛の黯然として此方を呑み込んでしまいそうな鋭さを好ましいと感じている。そうであるからこそ、畢竟、弛然となる己があり、ジーノはそんな自らを知覚していたが何が何でも改めねばならぬとまでは思う事が出来無いでいる。
「泉はどうして出来るのか、知っているかい?」
 耳を欹てていた椿は首を横に振った。
 ジーノは、椿には不可思議に思われる微笑を湛え、囁きに酷似した聲音で云う。
「泉は、水妖が膝をつき死んだその地に出来るんだよ」
 椿は恂然と肩を揺らした。椿には恐ろしいと覚える事を告げたその唇で、ジーノは再び杯を傾ける。疑懼の視線でジーノの手にある杯を看する椿に、ジーノは杯の一滴まで挑發的に呷ってみせた。
「王子…!」
 焦った聲で呼んだ椿の双眸に涙が滲み始めているのを見とめたジーノは、怡然と笑った。直後、弄玩されたかと椿が唇を尖らせる樣に、ジーノは卓越しに腕を伸ばして髪を撫でてやる。それで簡単に懐柔される己の易さに椿が肩を落としていると、何も椿を騙した訳では無いと苦笑するジーノの聲が聞こえた。
「水はただの水でしかないよ、何の力も無い」
 水瓶を取り、空いた杯にジーノが水を満たし、呟く。
「…死んだ水妖が泉になるのは本当だけど」
 吁嗟、別にボクが殺したって話じゃないから勘違いしないで、ボクはそんな野蛮じゃないと艶冶に付け加える。
 椿は中庭の泉のほとりに立つ白い像をちらりと見た。では、あの何処かジーノに似た面差しを持つ像は水妖なのかと感慨が落ちた―像の女には無邪気さがあるが、ジーノは慵さを混ぜた蠱魅が勝つが故に一瞥では分かり難いが―。杯を揺らし、杯の中の
水が漾々とうねる樣を睫毛を伏せて眺めるジーノを見詰める。燭火が黙然とするジーノの彫りの深い容貌に陰影の濃淡を粧う。
 それきりジーノは何か語らうという気分にはならなかったらしい。謐然と白皙を燈台の灯りに弄らせるに任せている。だがそうであるからとて、必ずしも椿が席を外す事を望んでいる風でも無い樣に椿には感じられた。夜空の下、口を閉ざすジーノの貌状には愛惜と哀憫が憑いてる樣に懐歎せられ、それ迄手を伸ばさずにいた目の前の杯を椿は手に取った。ジーノがした樣に、杯を唇につけ、傾ける。咽喉を潤したそれは清冽である。
 干した杯を椿が卓上に戻した時、ジーノの眦が微かに笑んだ気がした。


 *


 莞爾と笑んだジーノに呼ばれる。
「バッキー」
 だが、椿は足を踏み出せずにいる。求められたとはいえ、と心裡で呟く椿の姿は、耳を完全に伏せ、尾は惴然として床の上を箒の樣に引き摺りそうな程に垂れていた。
「王子」
 表情では伝えられぬ爲に、自分は困っているのだと椿は頸を傾げてみせた。だが、ジーノはその椿の困惑を頑として受け取らなかった。緩舒として榻に身を預け、空いている座面を掌で軽く叩き這邊に乗れと促す。椿は右の前足を絨毯から上げ、踏み出そうとして止める。それを数度繰り返して漸く観念の臍を固め、榻下からジーノの膝脇へと身を上げ行儀良く坐った。ジーノの端正さに甘みを含ませた眦が和む。
「良い子だね」
 漆黒の毛並みをジーノの長い指が梳く樣に幾度も撫でた。丸きりの愛玩犬の扱いに、些か椿の矜持は損なわれる。若し赤崎に見られたならば、些かって程度か、易々と牙を抜かれんじゃないと叱咤されるのがありありと浮かび、吶々乍らに訴える。
「……王子、俺、狼なんス」
「うん」
 咽喉許から首筋をジーノの指が縵然と撫でる。椿はくっと目を細めると、ジーノの膝上に己が両前足を揃えて乗せ、身を伏せた。そうする事によって頤下から咽喉許にはジーノの指は届かなくなったが、今度は首から背がジーノの手の範疇に入った。背梁に添って懇ろに拊愛せらる都度、椿の神経が一方ならず騒擾となるが、此処から床に降りて逃げた時のジーノの表情を想像すればひたぶるに堪えていた方が良いように
胸臆われた。
 暫らくそうしている内にジーノの手の弄玩が止まり、椿の頚椎と胸椎の境目辺りに置かれる。ジーノの右腕の重みが椿を縛しており、視線だけをそっと上げて見遣ればジーノの瞼は閉じられ、如何も椿を温石代わりにして転寝と決めているらしかった。
 秀でた白い額と閉じられた瞼の縁の長い睫毛、すらりとした鼻梁、酷薄に整った唇と視線を移し、どうにも恍然として熟視していた己に気付いて含羞った椿は頭を起こし、ジーノの膝に乗せていた前足を揺すり醒寤を促した。
「…王子、王子」
「何だい」
 閉じられた瞼はその儘に、明瞭な聲でジーノは返答した。眠っていたのではなかったのかと、椿は言葉を詰まらせた。
「えっ、と……」
 ジーノの馬手が吃る椿を思い出したかの樣に柔らかに撫で始める。椿は己の裡の脆軟な何かが、ジーノの白い手の中にあり、最早己のものであり乍ら己のものではなくなっているのではなかろうかと云う懼れに駆られた。だが、椿は懼ろしくとも嫌悪等
は覚えず、此れは一体何だろうと流動し昏迷する己が情動に戸惑い、口を噤んでしまう。
 黙然としてしまった椿を他所に、ジーノは口を開いた。
「午睡しようか」
 ぱちりとジーノは双眸を開いた。見上げた椿の目からは、ジーノの開いた瞳睛に睡魔等は無く、突然の提案に瞠然とする。その椿の躊躇の間に、ジーノは椿の体に腕を回し、苦も無く軽々と抱え上げる。
「おっ、王子…!」
 戛然と踵を鳴らし、居室から寝所への扉を開けると、ジーノは抱えた椿ごと廣牀に転がる。
「!」
 遽然と耳を伏せた椿の鼻先を、ジーノの髪が掠める。驚いた椿が瞬き目の焦点を合わせると、隙も無い程間近にジーノのしてやったりと侈放に笑む顏があり、俶爾に四肢を硬直させる。ジーノは腕の中の椿が強張っている訳を容易に忖度出来たが、だからと云ってこうと己が決めた事を引き下げる性分でも無かった。
 椿は只管周章えた。然し、己がジーノの意の儘に振舞うのであろうと云う事は頭の片隅では悟っており、従って狼狽するのも惟、己が愧羞を宥め治める迄の須臾の間の葛藤でしかない。椿を囲い込むジーノの掌が椿の背を緩やかに辿り撫綏する。椿はジーノの掌の下、己が躰がジーノの意図の許に矯められ、以前の己には戻れぬ樣になっている予感に怖震う。怯えが椿の爪の先にまで伝ったが、寝乱れるジーノの髪がその額や頬に降り掛かっている樣を眺めていると別の何かが新たに爪の先まで波及していく。
 軈而、心身の弛張に疲れた椿は瞼を閉じ、取り留め無く物思いに耽る。専らジーノに纏わる事柄が多いのは、今の状況の所為だと椿は頑なに思う。
「あれ?」
 思料に引っ掛かりを覚えて椿は目を開きジーノを見遣った。彼は男と同じ部屋で寝る趣味は無いのではなかったのか。
 ジーノは煕笑した。
「王子の犬だから良いんだよ」
「! 犬じゃないっス! 狼っス!」
「ハイハイ…、どっちでも大した違いは無いよ」
 あるっス! と椿は心中抗議するが、牀蓐の中、ジーノの腕に抱え込まれ、つい黙り込む。こうして黙り込んでしまうのはジーノにとっては了承と受け取られているのであろうか、否、抑もジーノが己の犬だと云うからには了承なんてものは初めから必要の無いものなのかもしれない。求められるものは、唯、己が如何したいのかの意思一つなのやもしれないと椿は寂念とした。


 *


 今宵は散歩に出ようという話になった。
 椿は己が口腹の爲に度々森へと出ていたが、ジーノが自ら逍遥すると云うのは椿が此処へ来て始めての事であった。然し、散策用の短靴は奈辺に仕舞ってあったものかと身支度に手間取るジーノと、その指示を聞いて幾つかの衣裳部屋を右往左往する椿とでは、話が出て即時に他行と云う訳にはいかなかった。
 結局、二人が玄関を出たのは宵を過ぎて乙夜に入った時分であった。椿はこれもまたこういうものなのだろうと肯定的に思う事にした。人狼の自分は夜目が利くし、夜の眷属であるVampireもそうであるだろう。何の不自由も無い。
 散々身支度に時を費やしたジーノが雍容とした足取りで正面玄関を出る。椿はその後に順直に続いた。
 森の木立は黯湛としていたが、其処を進むジーノを妨げ拒むものでは無い樣に椿には見える。正しく這邊はジーノの膝下にある特別な蔽虧された森なのであろうと懐裡に畏れを持つ。自分が達海や皆といたあの森は此処からどれ程に遠く隔たっているのか、それとも近いのか、何とは無しに去来したその風景が無性に懐かしく覚えた。
「月が綺麗だよ」
 唐突に告げられ、ジーノの三歩程後ろをついて行く椿は云われる儘に夜空を見上げた。確かに月は皓々、だが前を歩くジーノが霄を仰いだ仕草は無かった。
 椿は何と答えたら良いのか、咄嗟に言葉に詰まった。ジーノは月を一瞥もしてはいない。であるのに、椿は仮令、月に叢雲が掛かっていようとも、ジーノの月が綺麗だと云う言葉に己が意を合わせたかった。
 そして皆と居た森を思い出していた己が忽ちに銷えて、意を合わせたいと望む己の情動が我を出した事に愕然とし、ジーノに返す言葉が疑義であれ肯定であれ益々口から出せなくなった。先を悠然と歩くジーノの典雅な後姿を瞥見した椿は己の舌の強張りに悄然とする。先を歩むジーノとの間に更に二、三歩の遅れが足された。
 ジーノの背は椿からの聲が無くとも泰然としている。悵望する椿にはそう感じられた。
 答えられないでいる椿は、王子と何時もの樣に呼び掛ける事も躊躇われた。儘ならぬ言葉の代わりに、眥から涙を溢した。


 *


「食事に出て来る」
 ジーノの一言に、椿は駭然としてしまった。
 ジーノはこの城で日々を懶惰に過ごす。その無聊を慰める爲に椿を呼んで戲言を弄し、右顧左眄、顔色も急がしく変える椿を眺めて愉しむ。そういうものだと勝手に思い込んでいた己に、椿は再び驚愕した。ジーノはVampireである、それをまともに理解していなかった自分の昏愚に赧愧した。
 椿が己が思惟の中に沈んでいる間にも、ジーノは己が調子で身支度を進めていく。
「バッキー」
 ジーノの聲に呼ばれ、椿が顏を上げた時分にはすっかり外出の仕度が整ったジーノが目の前に居た。
 遽色を浮かべた椿の顏にジーノは傾奇を示し、如何したのと白絹の手袋を填めた手で椿の黒髪を玩び双眸を覗き込んだ。椿は椿で、この姿の時も狼の姿の時にも何れにせよ構わずジーノの指に触れられ、掌で撫でられる都度に味わう漫ろなぞめきに晒され、そうで無くとも發語の上手くいかぬ口が益々鈍滯する。
 ジーノの靱やかな指は椿の髪を弄んでいる。
 今此処で、行かないでくださいと云うのはVampireに飢えろと云う樣なものである。椿にも分かる。然し、この髪を嬲っている指が他の何者かにも與えられるのか―喩えそれが衷情等欠片も無い只の捕食行爲だとしても―と想像すると、非道く鬱結する自分が居る。その一方で己の胸臆のこれが我意に過ぎないと頭の中では解していた。己の我意をジーノに押し付ける自身を想像すれば、その餘りの醜惡さに愧死の思いが募る。結局、悄然と俯いてしまった椿はジーノに何一つ云えなかった。
 ジーノは指から椿の髪を逃がして遣った。腕を肢体の脇に下げる。ジーノの見る処では、椿は己の中の情動を了知しているのであろう。だが、中途半端に“老い”て分別を付けてみせた椿の口は懼れて何も云えない。俯き隠れてしまった、幼さを残す黒瞳の方がいっそ正直であった。頑固な唇を割らせるには、椿の中で決定的にまだ不足するものがあるのであろうとも忖度せられた。
 ジーノは椿に知られぬ樣、溜息を噛殺した。
「…じゃ、大人しく留守番しているんだよ」
 血の匂いも濃厚な椿の咽喉許に目を細め乍らその額に接吻し、外へ出る爲に踵を返し足を踏み出した。


 *


「気に入ったろ?」
 ふらりと城に遣って来た達海の漠然とした問いに、ジーノは瀟灑に肩を竦めてみせた。
「つたない乍らも懸命に勤めてくれるのには満足しているよ」
「勿体ぶった云い方しやがって」
「何がだい?」
 作意等、到底考えられない樣な穏当な微笑をジーノは白い頬に浮かべた。一方、達海はそうやって己というものを完璧に隠し遂してみせるジーノに、そうしてまで隠さざるを得ぬ内面の激しさを推察する。変で面倒な奴と思い乍らもそれが彼の矜持の高さ有り樣に所以するものならば、それがジーノという個の滋味なのであろうとも思い直す。
 向かい合って座る二人が互いに腹の底を探らせまいと不穏な微笑を交わす。其処へ、敏くも第三者の気配を感じた椿が遣って来た。
「王子、誰か来…」
 遠慮勝ちに扉を開け乍ら、誰何を口にする。
「おう、椿」
 応接椅子の柔らかな背凭れに躰を預ける達海は、片手を極めて軽い調子で挙げた。
「イジメられてなかったかー?」
「達海監督…?!」
「ボクがそんな事をすると思うのかい? 全く失礼だよ、タッツミー」
 扉を開け放った椿は頓狂な聲を上げ、ジーノは大袈裟に顰眉して苦言を呈する。達海はからりと笑った。
 達海は挙げたその手で、扉の付近で突っ立つ椿を招く。小首を傾げた椿は扉を閉め、躊躇いの見える足取りで二人の座す椅子近くに歩み寄る。
 丁度、椿を頂点にジーノと達海と、二等辺三角形を形作る樣に立った處が椿の蔽い難い内心の樣にジーノには思われた。その等分の距離に内心、常の己らしくもなく舌打ちしたい気分に駆られ、代替に肺臓の奥迄深く息を吸い込んだ。襟懐、如何考えてもpadreじゃない、madreから譲り受けた気質だと疎ましくも覆し難いそれを顧みる。水妖は魂を持たぬが故に魂を慾しがる。魂とは総じて“相手の全て”の意である。淺ましくも、全てか零かしかない。半分、況してや曖昧には意味が無い。納得も出来無ければ、理解も出来無い。冷徹な捕食者である可きVampireがして遣られた―この言い方はpadreに無礼かと思うたが他に的確な言葉が思い当たらぬ―のは、この水妖の希求の激しさにだろうとジーノは諒察する。加えて、か弱いとされる水妖は實の処その属するelementの故に世のあらゆるものに影響を及ぼす。水と親密性を持たぬもの等無い、それをも顧慮すればpadreがmadreに敗北するのも理であろうとジーノは諦観した。
 寛然とジーノは椿に向かって告げる。
「御帰り、タッツミーと」
「えっ?」
 惶惑した聲を上げた椿に、ジーノは言を付け加えた。
「ボクはタッツミーの足労に対して何も持たせずに帰す程無礼じゃないって事さ」
 額に掛かる己が髪を耳殻に掻き遣り乍らジーノは佻薄にも響く口調で云う。椿は忙しなくジーノと達海を見比べた。達海はジーノの内心等判らんとでも云うかの樣に肩を揺らしてみせた。椿はジーノの発言を己で判断せねばならないのだと、蒼然となった。椿は奥歯を噛み締め、顏を伏せる。自分にはジーノの言葉を叶えたいという慾求がある、だが、御帰りというジーノの言葉を呑めば自分はジーノの許を離れなければならなくなり、多分ジーノの言葉はこの後聞けなくなるのだろう。それは非常に寂しい事だと椿は悒鬱を感じる。その上でジーノの言葉か、己が我意か、二つを天秤に掛けるならば結局の所椿はジーノの言葉を取りたい。
 ジーノは踞牀した儘、二人、達海と椿を恬澹と送り出した。
 飄々と歩く達海は、奇妙にもジーノの領域からの出方を知って居る樣であった―ジーノが誰かに親切に道を教える姿と云うものを椿は想像出来無い。複雑に方角を変え乍ら、達海は椿を此方だと誘導する。もう如何経路を辿ったのか、椿には分からなくなっている。
 大きく歎息した椿の萎れた顏を横目に見、達海は問う。
「どうした、皆と会えるのは嬉しくないか?」
「! いえ、そんなことないっス」
 早口に椿は答えた。達海は脊髄の反射の樣な速度で返ってきた言葉に、片眉を顰めた。頭で考えて答えたのでは無く口先だけが咄嗟に動いた、一種の逃避がそこにはあるのだろうと諜う。こういう時の椿は暫らく放って於くに限る、と達海は判じ、ジーノは剛気にも突き放してみせたが、と振り返る。然し、稀にも無いだろう―と達海が考えていた―ジーノの寵に遇されたらしい椿はその記憶が桎梏となっている樣子である。得られぬとされぬものを得てしまったものは如何なるのだろうと達海は思惟を廻らせる。大方ジーノとその他を較べ、一一に落胆を味わうんだろうなと苦笑する。必竟、他では得られぬと思い知らされた椿は遅かれ速かれジーノの手の中に戻るのやもしれず、そうとなればジーノの今回の突き放し等、単なる猶予期間に過ぎないではないかとあきれる。全部を断ち切って来いというのか、惡辣だな王子サマはと、達海は諸々を棚に上げて慨嘆する。
 そう感慨を覚えた達海だが、だからと云って口を出す気等毛頭も無い。ま、所詮、当人らが己の頭で頑張って考えるコトでしょと、組んだ両手を後頭部に当て漫然と足を動かした。