お題3:ジノバキのエロい話
ばん様 【Queen's Kitty】 ※R-18
息するみたいにあなたが好き
息を切らせて走る、緑色したピッチ、描かれた白線の上、ゴール目指し一直線に駆ける。
ボールへむかってまっすぐまっすぐ、走るだけでよかった。それが全てだと思っていた。
高い鼻、履いているスパイクは金ピカ、貴族というものがあるのならこの人を指していうのだろう。遅れてやってきたその人は悪びれもせず、寒空の下、明るく笑って怒鳴りあっていたはずの場を変えてしまった。マイペースでワガママ、だけどそれが嫌味じゃない何かを持っている。
初めて会ったばかりなのに愛犬を呼ぶような気安さであの人は呼ぶ、頭の悪い猟犬よろしくボールを追いかけては喰らいつけば、タイミングぴったりにパスが飛んで来る。すごい、純粋にそう思う。肌で感じたる彼の技術の高さに胸が高鳴る。わくわくしてどうしようもなく、楽しい。
気まぐれな王子様のアピールタイムが終わる頃、すっかり骨抜きにされた自分がそこにいた。
ピッチでの出会いから彼の気まぐれで始まった関係はその場限りのものではなかったらしい、下手で失敗ばかりする自分のどこがいいのか。王子も監督もミスばかりの自分を気に入ってくれて使ってくれる、それは椿を嬉しくさせ、同時に落ちこませもした。
場の雰囲気に飲まれ、すぐフィジカルへと反映させてしまう。期待されるなら、答えたいと思うのに焦る気持ちは空回りするばかりで上手くいかない。せっかくもらえた王子のパスも得点に繋げられられない、あんな綺麗なパスをもらってもどうしてかチャンスに繋がらない。
(このままじゃ…いやだ…)
焦る気持ちを払拭するように頭を振って、今度こそ、そう意気込んで駆け出した。
顔つきの変わった飼い犬をみて、おやと目を見張る。気弱な飼い犬のその顔がジーノは好きだ、弱さから顔を出す鋭さにドキリとする。臆病な彼からすれば、ピッチの上は怖いものだらけだろう。よくもまぁ続けて来れたと思うのは失礼だろうか。
何も敵になるのは敵チームだけではない、反感を買えば味方であるチームメイトやクラブチーム、彼らを応援するサポーターだってどうなるかわからない。ピッチでさえ、ぶつかり転がされ、打ち所が悪ければ怪我では済まない。時には思わぬ接触で相手の選手生命を奪うことだってある、自分だってそうだ。
技術を磨き、ピッチで行う駆け引き、厳しい勝負の世界に身を置くとはそういう事だ。脚が続き、動き続けるその日まで選手として在るのなら相応の覚悟を持たなければならない。つまらない試合なんてジーノのプライドが許さない、出る価値もない試合のピッチにいる意味なんてない、それが例え傲慢で我が儘だとしても。
そう思っていた、彼を知るまでは。
「走れ、走れ」
赤と黒のユニフォームを背に走る、7の数字。
がむしゃらに真っすぐボールへと向かって走る、その姿から目が離せない。
臆病な彼のどこにそんな情熱が隠れていたのだろう、魅せられているのはどちらなのか。
始まりは飼い主と飼い犬、最初は憧れみたいなものだと思っていた。
バッキー、彼だけが呼ぶ特別な名前。そうして呼ばれてしまえば主人に呼ばれた犬のように駆け出してしまう、用事はどれもたいしたものではなくて、暑いからジュースを持ってきて、そこのタオルとって、他愛のないことばかりなのに特に何とも思わない椿をみて先輩の赤崎は「王子に調教されすぎだろ」と呆れていた。
訳もなく名前を呼ばれても王子からだと思えば不思議と嫌ではなく、彼のワガママの気まぐれな振る舞いも椿を驚かされることは少なくない、それもまた王子なんだなぁと彼らしくさえ思える。不思議な人。
「バッキー、ジュース買ってきて」
お願い、そうして王子から手渡されたお札を持って椿は自動販売機の前に立つ。ジュースといっても大抵の人が思い浮かべるようなコーラやファンタのような炭酸飲料などではなく、彼が指すのはスポーツドリンクだ。椿もあまり炭酸は得意ではないので好んで飲まないが年の近い世良ならポテチのお供にしただろう。
青いパッケージに馴染みの白の文字が刻まれた缶を持って、持ってきた王子のドリンクケースの蓋を開ける。底に残っていた氷は暑さのせいか溶けていてそこに新しい氷を入れ、開けたプルトップから缶の中味を注ぐ、溢れないよう詰め込むと蓋をしてそれを持ってジーノの元へと届けた。
「ありがとう、…さすがにこう、じめじめしているとつらいね」
前日に降った雨のせいか、午前中の練習を終えたピッチはじわりと湿気を帯び、熱で歪んでいる。他のチームメイトたちもどこかぐったりとしていてまとわりついた汗を拭う姿がみえた。確かに暑く、冷たい麦茶が出されたら一気に飲み干してしまうだろうな、麦茶の味を想像して喉を鳴らしそう思う。
ふぅ、と王子が一心地ついたのか息を吐く、汗をタオルで拭いてじっと椿をみつめたと思うとなんだか怪訝な顔でこちらを眺めるので思わずたじろいだ。お釣りのことだろうか、そう思って余ったお金をポケットから取り出して渡そうとすれば、呆れたように溜め息をつかれてしまう。
「あのねバッキー、なんのためにボクがお札で渡したかわかってる?」
「え?えっと、お金、…細かくしたかったからですか?」
「ちがうよ、今日は暑いし、練習はまだあるんだから飼い犬にも冷たい飲み物を与えるのが飼い主の勤めでしょ、そう思ったから多めに渡したんだけど」
「あ、すっスミマセン…」
「いいよ、ホラいっておいで。ボクは日陰で休んでるから早めにね」
「は、はいっ!」
優雅に手を振る王子の傍から走り出して、不意に立ち止まり振り返る。
「あ、あの、王子!」
「うん?」
「ーーーありがとうございますっ!」
大げさすぎるぐらいお辞儀をして笑えば、目を丸くして驚いたジーノがみえる。それも一瞬ですぐに笑顔に変わり、椿もまた踵を返して走り出した。手の中に握っている硬貨は暑さなのか、それとも握る椿の手の温度だからなのか、妙に熱くて。
彼のプレーのように気まぐれに与えられる優しさが椿は好きだった。
すらりと伸びた背、サラサラの黒い髪、顔立ちは遠い国の血を半分受け継いでいるのを隠さない。近づけば、同じ男なのになんだかいい匂いがして。ふわり、香る先を辿れば彼の髪からであることに気づく。着ているものがお洒落で高そうなものばかりだから、使うシャンプーもきっと上等なものなんだろう。
癖で跳ねる自分の髪を掴んで引っ張ってみる、伸ばした分だけ戻ってぴんと跳ねた。椿の知るシャンプーなんてこんなもの、ドラッグストアで大量に仕入れられて安売りされているリンスインシャンプーはフルセットで買っても千円もしない安物だ。王子の使うもののように髪に光沢なんて出ないし、あんなにいい香りがしない。
吸い寄せられてしまいそうなあまい、花のような香り。
無意識に近づいて顔を寄せた。
「王子ってすっごくいい匂いしますよね…シャンプー、何使ってるんすか?」
「バッキーも使ってみる?」
僅か面食らったような顔をしていたジーノだが、褒められるのは悪い気がしないのか。椿にも手持ちのシャンプーやエッセンシャルの入った瓶やチューブを出してみせる。手入れ用のためのオイルや香水の瓶ひとつとってもショーケースで並ぶぐらい綺麗でなんだか使うのが惜しかった。
家に帰れば試供品もたくさんあるから好きなのをあげるよ、そう言って椿の髪をみながら王子は楽しげに笑う。聞けば、雑誌の取材で知り合って仲良くなったスタイリストからもらったものや女の子からのプレゼントらしい。プロのお奨めならともかく、王子への贈り物は勘弁してもらいたいが。
「バッキーなら何が合うかなぁ、毛先に少し癖があるみたいだけど」
練習後のロッカールーム、互いにシャワーを浴びたせいか髪が濡れている。ジーノのスポーツ選手にしては綺麗な形をした指が椿の髪を一房摘み、離れる。それが無性に恥ずかしくて目を伏せると王子が取り出した瓶やオイルの事を聞いて、気恥ずかしさごと誤摩化すよう説明を促した。
他のスポーツに比べればサッカーは指定されたユニフォームを着用する以外、髪型の制限もない、むしろ自分から目立とうと外見からアピールする者もいる、ピッチでボールを蹴るだけではなく、そういった面でも興味を持ってもらい、プロでもスタメンへ起用してもらおうと皆、必死なのだ。
細かい髪の癖や手入れの仕方、寝癖の直し方、ドライヤーの掛け方一つにとってもかなり詳しい。疎い椿にでも理解できるようにわかりやすく教えられ、それを聞きながら椿は男でも結構踏む手順があるもので水をつけて直せばいいなんて簡単なものではないらしいのを知り、ただただ関心するばかりだ。
話すうちに自分達の周囲に人だかりが出来ていた、ロッカールームに残っていた数人が興味深げに覗き込んでいる。やはり、身だしなみには皆、結構こだわりがありらしい。改めてどういうものを使うか、なんて話題にはしないものの、気にはなるようで、ましてやETUの王子様直々の講釈となれば気にならないわけがない。
「もう、なんなの?ボクはバッキーと話してるんだけど」
「王子、そこをなんとか!」
「実は俺、どうしても直せない癖あるんスけどよかったらアドバイスもらえません?」
「しょうがないなぁ…」
残っていたチームメイトたちも混ざって行われたちょっとした特別授業、賑やかな輪の中でなんでボクが、そう呟いて、質問に答える王子がとても機嫌良さそうにみえたのは気のせいじゃない。
名前を呼ばれて驚くよりも嬉しい、前よりもっと王子の声を聞きたくなる。つまらない用事を言いつけられても構わない、ありがとうバッキー、お礼を言って笑う王子の笑顔がみれるから。ピッチにいる時だって一番に駆け出してパスを受ける時が誇らしい、あれこれってなんか変じゃないか、さっきから王子のことばかりだ。
王子が女の子たちの声援に応える姿をみると胸がちくりと痛んだ。今まで当たり前だった光景の中に感じた違和感、痛みはどんどんと大きくなったかと思えば、王子がバッキー、そうやって呼ぶだけですとんと鎮まる。これはなんだろう、わけもわからなくて、けれど確実に広がる痛み。
それを恋だなんてその時の俺は思いもしなかった。
探さなくてもピッチに居ればどこでだって彼をみつけられる、赤と黒の長袖のユニフォーム、立てられた襟、背中に描かれた10の字をみてたまらなく安堵するようになったのはいつからだろう。試合が終わり、控え室へと戻る途中、暗がりの中、佇む王子の姿がみえた。何をしているのだろう、誰かに呼ばれたのだろうか。
見てしまえば気になって目が逸らせない。次々と戻っていくチームメイトたちに後で戻りますと伝えて近づけば、険悪な雰囲気の中、漏れる口論。あ、と思った瞬間王子が叩かれた。よくみれば王子を叩いたのは綺麗な女の人でテレビドラマでみたようなワンシーンを思わせるような突然の出来事に声を失う。
もう一度手を振り上げて王子を叩こうとした手を掴んで、王子が口づけた。椿が知っているような触れ合うようなキスなんてものじゃない、奪うような黙らせるために行われたキスに釘付けになる。唇が離れると王子はそのまま、泣き崩れる女性を連れてどこかへ行ってしまった。
「あれ…なんで…?」
溢れ出る涙が止まらない、拭っても拭っても勝手に流れているのをみていたら胸が酷く痛んでいることに気づいた。胸が痛くて、痛くて、たまらなくて、それなのに頭からは王子のことが離れない。漏れる嗚咽を唇を噛んで抑えた、一体何が悲しくて泣いているのかさえもわからず、そこから逃げ出した。
誰もいない控え室でよかった、こんな泣き腫らした目を誰にも見せたくない、出来れば王子にだけには。
(あぁ、でも…)
慰められるのなら王子がいい、そう思った。
次の日、眠れなかったせいかコンディションは最悪でミスを連発し、黒田さんに叱られ身を縮める。一方の王子とはいえば、朝から終始不機嫌で夏木さんに当たり散らしては監督や村越さんに諌められていた。いつもならここで俺がちょっと話を聞いてきます、なんて言い出してそれとなく理由を聞くんだけど、どうにもそんな気にならなくて視線だけ動かして王子を見れば、俺と目が合った王子が俺を見て驚いた顔をして固まる。
どうしてだろう、もしかしたら昨日みていたことがバレたのだろうか。王子が女の人といたのを、そう思って怯えれば、後ずさったせいで後にいたザキさんにぶつかった。慌てて謝れば、別にと短く言って俺と王子の顔を見比べる。物凄く嫌そうな顔をした後、諦めたように息を吐いて王子のところへ走って行った。
「どうしたんすか、王子らしくない。機嫌悪いのは構わないっスけど当たり散らされるのは迷惑っすよ」
「ちょっと嫌なことがあってさ、昨日付き合ってたコが一人、試合を見に来てくれていたんだけど、面倒な事になってね」
「そりゃ難儀っすね、でもまぁ正直今までよく刺されませんよね王子って」
「失礼だなザッキーは、ボクが女の子たちを満足させないとでも思ってるのかい。付き合うからには絶対に満足させてみせるし、面倒は嫌いだから、女のコたちにだって予めちゃんと話し合ってるんだ。…どうやらそのコ、家で何かあったらしくて不安定になっちゃってね、参ったよ。もちろん話をちゃんと聞いてあげて家に送り届けてあげたけどさ」
「それじゃあ、そっちは問題ないじゃないですか。それで、どうしてそんなに不機嫌なんすか?」
考え込んだ後、ようやく口に開いた王子が呟いた理由に赤崎は心底呆れ果てた。
「ハァ? 舐めてんすか?」
遠くから彼らのやり取りを気にしていたせいか、会話のほとんどは椿の耳にも届いていたけれど、赤崎が吐き捨てるように王子に向かって呟いた言葉の前、王子が不機嫌な理由だけがどうしても聞き取れなかった。最も王子の傍にいた赤崎しか聞こえない程度の声色だったが、容赦のない赤崎の言葉に面食らう。
王子と言えば、だからザッキーには言いたくなかったんだよ。そう言って肩を竦めて笑う、機嫌はだいぶ元に戻ったようで王子の笑顔をみて椿はほっと胸を撫で下ろした。赤崎がこちらをみながら王子と何やら話している、そうして戻ってきたかと思えば、顎でしゃくって椿をピッチの外へと呼び出した。
「あ、あの…王子、どうだったんですか…?」
「開口一番がそれかよ…」
気になってんのなら直接聞きゃいいだろうが、至極面倒くさそうにごちて、椿の赤くなった目元を指差す。だいぶ腫れは引いたと思っていたのにうっすらと赤く丸みを帯びている。そこを指して棒読みで一気に捲し立てた。
「朝から苛ついててせめて気晴らししたくても、どっかの馬鹿がいつもならご機嫌伺いにくっついてくんのに近づきもしなければ、目も合わさないのにムカついてたんだと、その馬鹿犬の顔みたらいかにも泣きましたって顔してて一体、何があったんだか、そっちの方が今は気になってるんだとさ」
「え、それ…本当、なんですか…?」
「本当だからお前を呼んだんだよ、で、お前のほうはなんなんだよ、それ」
「お、俺は……」
ザキさんに言わなくちゃ頭の中ではそう思うのに、どうしよう。嬉しい、王子が気にしてくれているのがこんなにも嬉しい、やばい泣きそうだ。思った時には遅く涙がぽたぽたと落ちて止まらない。なんだこれ、わけがわからない。王子のことになるとどうしてこうなるんだろう、俺、どうかしちゃったんだろうか。
はぁと重い溜め息が聞こえて、顔を上げたくても零れる涙を抑えるのに必死で上げられない、そんな俺を見て、こんなの本っ当に俺の柄じゃないんだけどな、そう呟くと宥めるよう話を続ける。
「お前、昨日確か帰んの遅かったよな。じゃあ見たんだろ、王子が女と居たの」
「…は、はい…お、俺、王子の姿がみえたから、声、かけようと思って…それで」
「バッチリ目撃したってわけか、もしかしなくても一部始終全部か」
「…は、はい…ぐすっ…で、でも王子は悪くなんてなくて…おれ、王子が女の人とキスしてるの…みて、わけ、わかんなくなって…胸が痛くて、今みたいに、涙止まんなくなって…」
「そりゃあ、お前が王子のこと好きだからだよ」
「王子が、すき…?」
「言っとくが尊敬してるとかチームメイトとしてのじゃねぇからな、お前は王子に惚れてんだよ。恋愛感情込みで。大方、王子が女とキスしてるのをみてショック受けたんだろ。だから、そうなってんだ。いくらなんでも鈍過ぎだろ、端から見てても王子王子って言ってっからとっくに気づいてたのかと思ってたけど…どんだけ天然なんだよ、まぁいいけどさ」
好き、言われてもまだ覚束ない。だけど、自覚してしまえばそうだと実感する。そうか、これが『好き』なんだ。
気づいてしまえばあっという間にそう思えてきてじわりじわり熱が広がっていく。あれ程溢れていた涙はとっくに止まっていて、今すぐにでも王子のところへ駆け出したかった。
「俺としちゃあ、お前と王子がどうなろうが知ったこっちゃねぇよ。サッカーさえしっかりしてくれりゃあそれで。あ、でもピッチでイチャついたら怒るからな。ーーとっとと行って来い。じゃないと俺が困る、さっきから飼い主がお前のこと心配して落ち着かないんだよ」
しっし、犬を追いやるその仕草で赤崎が差すほうをみてみれば、入り口には王子がいて遠くからこちらを伺っている。脇目もふらず駆け出した俺はどこからどうみても犬そのものだろう、大好きなご主人様の後を追って尻尾を振って、嬉しくて胸が震える、痛みはもう、感じない。
泣いた顔はなるべく見たくない、それが可愛い女のコなら当然で絶対にそうさせないのがジーノのポリシーだ。付き合うなら面倒なコじゃなくて割り切ったものがいい、そうであったしこれからもそうだ。昨夜の事はとても残念だけど、彼女のためにも別れを切り出そうと思う。無理は良くない、お互いのためにも。
もともとそういう割り切った関係で自由なジーノが付き合うたくさんの恋人達、どのコも美人でジーノに見合ったゴージャスさと洗練されたものを持った彼女たち。けれど、同じぐらい素直な飼い犬が大切な事を思い知らされた。
怯えて逸らされた視線、彼の視界に自分が映らない、それだけでも腹立たしい。いつもなら尻尾を振って王子、王子と呼んで駆けよってくる、それさえもない。柄にもなく苛ついた、俯いた椿の瞳が赤く腫れているのをみておかしくなりそうだ。どうして、泣いているの。それが聞きたいのにこれじゃあ近づけない。
あぁ、そうか、彼が好きなんだ、泣いた彼をみて動揺してしまうぐらい。純粋すぎるくらい真っすぐで素直なボクの忠犬、可愛い顔立ちはしているけど、女のコみたいに柔らかくもお世辞にだっていい匂いもしない、それでも彼が傍に居ないと落ち着かない、暗い顔なんて見たくない。
名前を呼んだら笑ってみせてよ、バッキー。キミの笑った顔がみたい。
「ーーー王子!」
そうそう、そうやって名前を呼んでボクのところへ走っておいで。
ご褒美は何をあげようか、あぁ、でもまずは赤いキミの目元を冷やしてあげなくちゃね。
誰もいないグラウンドを見下ろして、ベランダから一望する景色は夕日と同じオレンジ色で眩しく思う。
黙ったままだと落ち着かなくて先に喋り出したのは椿からだ。
「あの、王子、俺…王子のこと、好きみたいなんです」
「うん、そうみたいだね」
「俺、ザキさんに言われるまでこれが恋なんだってわかんなかったんですけど、昨日、王子が女の人と…その、キス、してるのみてたら、悲しくてたまらなくて胸が痛くて」
「それでそんなに泣いたんだ」
「こ、これでもだいぶ引いたんですよ、朝なんかもっと酷くて必死で冷やして」
「でも、まだ足りないのかな。…赤いね」
温い風が二人の間を撫でていく、風に混じって香る王子の匂いはシャンプーだろうか、それとも彼の香水なのだろうか。ピッチを見詰める椿とは対照的にフェンスへ背を預ける王子は腕を組んだまま動かない。目線だけ傾けてみた横顔が知っている王子であるはずなのに、ちがうもののようで怖い気さえする。
「ねぇ、バッキー、恋なんてねテレビや本に書いているほどいいものじゃないよ。男女でも身分の違いや互いの価値観がちがえばどれだけ愛し合ってもかなわない。そんな危ういものだよ、物語じゃ素晴らしくても現実はそうは上手くいかない、病めるときも健やかなるときも変わらず愛せたら理想なんだけどね…それでもいいの。よりによってボクみたいな自分が浮気をしても相手には一途でなければ嫌なんて、ワガママで」
「王子はいつだってそうじゃないですか、そっちの方が王子らしいから俺は好きですよ」
「おやおや、言うねぇ」
「王子だって俺みたいな男相手で大丈夫なんですか?…その、俺キスもまともにしたことないからえ、エッチとか、そっち方面全然疎いっすよ?満足させてあげられそうにないっていうか…」
「バッキーが初めてじゃなかったらそれはそれでビックリするけどね、いいよ。ボクがキミの初めてを全部もらってあげる、それでボクがキミを抱くよ、まぁバッキーがボクを抱くっていう選択肢もあるけれど、色々とハードルが高そうだしね」
抱く、改めてそう言われると妙に照れ臭い。ハグよりキスよりずっと先のこと、そう思うだけで勝手に心臓がドキドキして顔に熱が集まる。夕日があってよかった、ただでさえ赤くなっているだろうから。だけど、同時に怖くもなる、全くの未知でその上、男同士。軟らかくもなければ硬い、アスリートの体を抱えて。
「…俺、頑張りますから。あぁでも自信ないな、だけど王子に嫌われたくない、こわい、王子がガッカリして俺のこと嫌になるのもいやだ、嫌いにならないで、ください…」
「こらこら、一人で勝手に落ちこまない…。バッキーに泣かれるとなんだか堪らない気持ちになるね。怖くなったら何度でも安心させてあげるよ、バッキーが怖くなるまでずっと傍にいて離してって言いたくなるまでさ」
「……なんか、ヤバイ…王子がすごく、格好良いっス」
「うふふ、それは光栄だね」
すっぽりと抱き寄せられて涙を唇で吸われてしまう、塩辛いね、そう笑って言う王子の顔が信じられないぐらい胸を切なくさせる。好きだ、ただそう思う。愛しさでいっぱいになってけれど、それは酷く幸せな感覚だ。王子の体温はどこまでも温かくてその腕の中でバターみたいに溶けてしまえたら、どれ程いいのだろう。
「好きだよ、バッキー」
いつしかそれはピッチだけではなく、お互いを意識するよう、恋へと形を変えた。
想いを自覚するようになってみてもどちらとも変化はなく、飼い主と飼い犬の関係は相変わらず、
変化があるとすれば、前よりも近づいた距離と、
触れ合う時間の多さ、声をかけ、名前を呼ばれることが増えたぐらいだろうか。
初めて招かれた王子の部屋で一夜を過ごす、予感が確信に変わる時がきた。
柔らかいシーツの上で横たわる、両脇には王子の腕があって、その間にぽつんと収まる。部屋に誘われた前の夜はおかしなところがないか、風呂でのぼせるぐらい格闘してしまった。今だって王子に誘われるまま、広いバスルームに連れていかれて髪も体も優しく洗われて裸にされた。
いつもとちがう上等な香り、それがお揃いだと思うと体が熱くなる。どこもおかしくない、そう思いたいのにやっぱり不安でもどかしい。無駄毛の処理も考えなくはなかったけど、元から毛の薄い椿にはあまり関係ない、王子をみても同じでベッドの上で触れる感触は滑らかだ。
ずっとそんな調子でいたせいか、たわむれに降って来たキスに情けない悲鳴を上げてしまう。もうちょっと可愛い声出してよ、なんて笑われた。王子だって過ぎるぐらい甘ったるい。
「なんだか、大事すぎてなんでもしてあげたくなるよ」
どうしようか、そう真顔で言われてしまえば椿は真っ赤になるしかない。ずるい人だ。
焦らすだけ焦らして椿の口から言わせてしまう、欲しい、王子が欲しい、そう言わせて真っ赤になった顔をみて満足気に笑ってようやく与えてくれる。椿といえば犬のようにご主人様が出す、よしの合図を出されるまで散々、待たされるのだからたまらない。そうして、我慢が出来なくなるのはいつだって俺なのに。
「王子が、ほしいです…俺、王子のものになりたい」
言わせちゃってごめんね、王子はそう言って瞼にくちづけを落とす。それが始まりだったように王子の手が肌をなぞっていく、顔中にキスを落として、耳朶を食んで、舐めて、その間も手は弄ったままで鍛えられた腹筋や弾力のある太腿を撫でて行く。むず痒いような体の奥底で眠る、知らない感覚をあぶり出す。
唇を奪われて理性ごと攫われる。舌で絡めとられて、隅々まで吸われ、鼻から抜ける甘ったるい声にぞくりとした。まさか自分からそんな声が出るなんて思いたくない、けれど、紛れも無い事実で現にこうして俺はこの人に暴かれる。浅ましい獣みたいな自分を。
知らず未知の感覚への恐れで体は小刻みに震えた、それさえも王子はあっさり奪っていく。潤む視界の中、形のよい指先が胸の突起へと及ぶ。女の子とはちがってお世辞でも綺麗でもないし、色素が薄いだけのそこは肌の色に近いだけで何も感じない、そのはずなのに、王子が触れればちがった。
尖った先の周りを指でなぞられ、ぞわり浮かび上がる感覚に震える。少し硬くなり始めたそこを摘んで押しつぶしていく、弱い刺激、けれどそれは確かに椿を昂らせた。こんなところを触られて反応するだなんて、女の子でもあるまいし、けれど、じわじわと追い詰められてしまえば下肢が熱くなる。
顕著ではないが手応えを感じたのか、王子はひっそりと笑う。ぱくり、そんな気安さで尖った場所にかぶりついた。え、ちょっと、なんて情けない声を出しても王子の動きを止められるわけじゃない。飴玉を転がすみたいに舌で転がして、軽く歯で噛まれてしまう。いやだ、そこはそんなことする場所じゃなくて。
「…やっ、やだぁ…」
上擦って甘えるような声に泣きたくなる。
王子の頭を掴んでも止まるどころか、くすくす笑って動きは強さを増していく。
散々、舌で舐めつくされて解放されたそこは赤い実みたいに尖っていやらしく腫れていた。
頼り無い薄い茂みを辿って、先走りでうっすら濡れる自身を掴む。しっとりと濡れていて白く丸い粒がぽたりと落ちた。反射的に脚を閉じようとして間に入って来た王子が邪魔をする、彼の赤い舌が唇をぺろり舐めたのをみて震える。なんて綺麗でいやらしいんだろう、そんな仕草すら様になっていて悔しい。
「ふふっ…バッキーのココすごく綺麗な色してるね、ボクとちがうなぁ」
果物みたい、そう呟いて手で扱かれ、王子の手の動きに翻弄されて喘ぐしかない。先端からはだらしなく先走りの液が垂れてみっともなかった。そこを何を思ったのか、王子がキスしてついていた液体ごと吸い上げる。
「あ、あっ…お、王子…だめっ」
「ちゃんとお風呂に入って綺麗にしたんだから大丈夫」
「ちがっ、そうじゃ…なくてっ…ひ、っ」
俺の言葉を制するように王子は手の動きを続けたまま、次から次へと沸き出すものを舐めとっていく、与えられた刺激に呆気なく達してしまい、精を吐き出す。達した余韻に浸かり、肩で息をする。王子の口元を汚した液は粘ついてつんと臭うそれを少し指で拭い、そのまま舐めた、やっぱり苦いねなんて彼は言う。
顔がこれでもかと熱くなるのを感じて目を逸らす、何が楽しいのか、そんな俺を笑って王子は少し離れていく。近かった距離に空いた空間、入って来た風が冷たくてどれだけ近かったのか思い知らされる。戻ってきた王子の手には高級そうな瓶があった、蓋が開かれると花のような香りがして瓶を傾け、とろみのある液体を手の平で転がしていた。さっきまで同じ場所に俺の精液がついていたはずの手の上、今は別な液体で濡れている。
どこか粘ついた液体をぼんやり眺める、両足を王子の手で開かせられているのに、頭は靄がかかったようにぼんやりとしていて覚束ない。太腿の内側をぬめった感触がして、目線を落とせば王子の指の先がとんでもないところを目指していることに気づく。
「え、あ、あっ…あの、あ、そ…そ、そうですよね、そこしか、ないですもんね…」
「うん、今からココを柔らかくして性器にするよ。そうしないとつらいからね」
王子がココ、そう指し示した場所をノックするよう、襞を撫でた。一瞬で震え上がり、不安や恐怖が沸き上がって、王子の顔だけをじっとみて耐えた。ここで少しでも怯えたらこの人はもう触れてくれないのかもしれない、それだけは絶対に嫌だ。覚悟を決めて王子の目を見据えればキスされた。
シーツを掴んでいた俺の手を王子は自分の首筋にかけて、怖くなったら爪を立ててもいいよ。なんて、囁く。甘い呟きに酔いしれたくても侵入してきた指で現実へと引き戻された。指の一つでさえ、異物感が酷い。普段使うのとはちがう動きなのだから当然で、押し広げるよう入って来るけれど、きつい。
ローションの助けを借りているのにぎゅうぎゅうに締め付けて侵入するものを吐き出そうと蠢く、王子が押し広げて動かしていた指を止め、別なものを探るような動きへと変えた。目的を持って探る手がある箇所を掠め、俺は背を反らし、甲高い声でないた。
「あッ、な、なに…?」
ただひたすらに気持ちよくて押し寄せる快楽の波を必死に受け止める、気づけば王子の指が二本、三本と増えて、俺の中を往復していた。ぐちゅぐちゅ、卑猥な音が聞こえておかしくなりそうだ。必死で縋ってやり過ごそうとしても与えられる快感が俺を狂わせる。
萎えていた前が腹につきそうなぐらい張りつめて、あと一歩、そんな時に指が抜かれた。抜かれた指を引き止めるように襞がうねって、ひくつく。代わりに宛てがわれたのはもっとずっと質量のある熱いもの。あまりの熱さで王子をみれば、普段よりも余裕のない顔をした彼がいた。
「大好きだよ、バッキー」
食べちゃいたいぐらい、聞こえるか聞こえないかぐらいのトーンで囁かれ、喉笛を乱暴に舐められた。
押し入られる感覚に声を上げる隙間を奪う位、強引に唇を奪われてぞくぞくする。
ゆっくり、ゆっくりだけど着実に何かが入り込んで来る。狭い場所を圧倒的な何かで押し広げて、繋がりやすいよう限界まで脚を広げられる、腰はしっかりと腕が回り込んでいた。内側から焼かれる感覚に息が出来ない、喘いでは涙を零す。零れた涙を唇で拭われ、萎えかけた雄が王子のお腹に当って擦れた。
不意の刺激で緩んだそこが埋まっていく、根元まで飲み込ませられ、きつい中が馴染むよう王子の手が前を掴んで軽く揺すった。呼吸すらおぼつかなくて息も絶え絶えな俺を見下ろす王子の瞳は切なげで綺麗だ。
「参ったな、バッキーが可愛い過ぎて余裕、ないかも」
奥へ叩き付けられたものの、あまりの苛烈さにだらしなく声を上げた。性器でもないそこが広げられるだけ広がって王子の逞しいものを受け入れる。律動の激しさに打ちつけられる度、体が軋んで壊れるくらい激しいのに沸き上がる快楽がつまらない不安をたやすく吹き飛ばしていく。
はしたない水音、甘ったるい声に混じって聞こえる王子の荒い息、首筋に絡めていた手はいつしか彼の広い背中に爪を立てしまう。腰が打ちつけられる度、勃起した俺のが当って擦れた。登り詰めるだけ駆け上がり、白い液を吐き出してはまた中を穿たれる。何回達したかもわからなくなるぐらい繋がり合う。
貪られてしまえば、どうしようもなく気持ちいい。自分だけがだらしなくよがってるんじゃない、そう思いたくて必死に目を凝らす、涙で歪んだ視界の先には眉根を寄せて気持ちよさそうな顔をした王子がいて、俺だけじゃない、それが何より嬉しかった。
行為の後で重くなった身を寄せ、王子の肩口に頭を埋めて凭れれば彼の手が髪を撫でていく、そうしているだけで王子は幸せそうで、離れ難いのはどうやら俺だけじゃないらしい、らしくもなく甘えていた。普段だってこうして甘えてもいいんだよと言われてしまうけど、それはさすがに申しわけなくて丁重に断った。
だって、一度そうしてしまったら歯止めがききそうにない。こんな風に甘えるのは王子と体を繋げる、その時だけで充分過ぎる。欲しいと言えば、いくらでもしつこいぐらい与えてくれるだろうけど、与えられ過ぎるのもちょっと困ってしまうから。
不意に言い忘れていたことがあったのを思い出す、最中は無我夢中ですっかり言いそびれてしまっていた、
飽きるくらい繰り返してもまだ足り無くて溢れてくるその言葉。
「王子」
「なぁに、バッキー」
内緒話を打ち明けるよう、耳元でそっと打ち明ければ、王子は殊更綺麗に笑った。
(おれ、息するみたいにあなたが好きです)
タイトルは伽藍様からお借りしました
[11/06/14]