お題4:キス
華倫様 【Fahrenheit】
ジーノは基本、都内のシティホテルにリブインしている。彼の父母の住む家は、同じく都内の某住宅街にあるそうだが、必要な時にしか戻ってはいないそうである。それを聞かされた時、当初椿は自立心かと考えたが、それならばマンションなりを借りる或いは購入すればいい事である。だって、ボク、家事なんてやった事ないから出来ないしねとジーノは嘯いていたが、ハウスキーピングの業者なりを頼めばいい事であろう。しかし、そうはせずにホテルを選択したのは、自分には考えも及ばない、ジーノの理由があるのだろうと忖度してみた。
また、ジーノは己の身体の不調は、僅かなものであっても看過せぬ主義らしい。体を資本としている生業だけに、チーム内にも己の体のケアを入念に行う先輩がいる事を椿は聞き知っていたが、それだって国内においてである。休みたい旨を達海に告げているのを聞いたが、戦線を一時下がり、休養の為にまさか海外へ渡るとまでは思い至らなかった。自分と著しく異なった基準、価値観を持つジーノは、椿にとって「刺戟的」という言葉そのものである。
その後、帰国した彼は在所を別のホテルに替えたらしく、広報室で永田有里が事務机上のPCのディスプレイの隅にホテルの名とその代表tel番号を書き付けた付箋を張っているのを椿は見かけた。
「どーしてこう、王子って、フラフラするのかなぁ!」
浅草生まれ浅草育ち、仕事先も同じ土地の有里は、漂泊するジーノが全く理解出来ないらしい。連絡先が一定しないったらと憤慨している彼女に対して他の事務員が、でも王子がいるのは有名ホテルだけだから探し当てるのが楽って云えば楽だよーと暢気に笑って流していた。
それに反駁して何事かを云う有里の声を背にし、椿はロッカールーム近くのホワイトボードの連絡事項を全面に渡ってチェックした後、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して受信されているメールを確認した。フォルダを開けば、たった今、広報室で話題にされていた人物からのメールが届いており、内容を確認すると今日の練習後の予定を変えた。
*
椿にとってはホテルは旅行や遠征で出かけた先で泊まる所という認識であったが、ジーノが云うには海外ではホテルに住むと云うのは、珍しい事ではないらしい。己の最期の時をホテルで迎えた有名人というのもいるそうである―チェンバレンもホテルで秘書に看取られた筈だけどと教えてもらったが、椿は教えてもらった人物がどういう人なのか、分からない―。要するに、日本の中層の家庭で育った椿には、そのホテルで生活するという感覚がうまく理解出来ず、そういうこと、そういう世界もあるのだろうとジーノの言葉をとにかく丸呑みする事にした。
メールに記されていたホテルの名を携帯電話の機能に附属している検索に入れ、利用する路線、最寄の出入り口を導き出し、椿はクラブの玄関から足を踏み出した。いつも遅くまで一人残って行っている練習を短めに切り上げた為、駅へと歩く道に未だ人が多い事に違和感を覚えた。
服も肩に斜めにかけた帆布のバッグもありふれたファストファッションだが、アスファルトを踏むスニーカーは足への負担を気にして良いものを選んでいる。たぶん、自分が身につけている物の中では奮発した金額のスニーカーだと椿は思っている。
ICカードを押し当て改札を通り、自分の田舎では考えられないくらいの待ち時間でやって来た車両に乗り込む。席には座らず、出入り口付近に凭れて立つ。車内には携帯音楽プレイヤーを用いている人物を数人見かけるが、ヘッドフォンは聴力に影響を及ぼす―難聴になる云々の所謂「耳に悪い」説を知って以来、椿はどうにも不安が勝って使えない。先輩の赤崎らが当たり前のように使用しているのを見てはいるし、何も耳に負担を掛ける程の大音量で聴かなければよいのだという理屈も分かるが、保守的なのか、手が出ないのである。日本語と英語が交互に入れ替わる車内アナウンスをぼんやり聞き流し、乗り継ぎしながら目的地へと向かった。
到着した椿は、エントランスからロビー、フロントまでの道程において、流石に簡素な自分の服装に引け目を覚えた。洗練された様式の建物に縁遠かったことが逃げ腰になる遠因であるが、しかし、今来ている服の他の物といえばチームの、対外用にと支給されたチャコールグレイのスーツくらいである。別に泊まる為に来た客じゃないんだ、呼び出されて来た、ただの面会者なんだと心の内でひっそり唱え続けながら、フロントのスタッフにルイジ吉田氏に面会に来た旨と部屋の番号を確認する。対応したスタッフは訓練された笑顔で復唱し、予め伝えられていたのであろう、内線で面会者の到着を連絡した後、ようやく乗り込むエレベーターの号数と階数、部屋番号を椿に教えてくれた。
上昇していくエレベーターが椿を降ろした階は、スイートのある階であった。廊下の絨毯の毛足は長く、足音が立たない。おっかなびっくり、椿が指示された番号のプレートを掲げた扉をノックすると開錠の音が微かにして、コーカソイドの血を隠さぬ秀麗なジーノの顏が久方振りに目の前に現れた。シルクのシャツに色の濃いスラックスという出で立ちで、部屋で寛いでいた様子である。
「いらっしゃい、バッキー」
爛然とした笑みに迎えられ、椿は頬に朱が散るのを自覚する。初めて出逢った時から幾度も目にしているというのにジーノの華やかな容貌に慣れるという事がない。
「は、はい…」
導き入れられ、扉が閉められる。
そういえば、と椿は思い至り、ジーノを振り返る。
「おかえりなさい、王子」
出迎えた側のジーノは軽く瞠目したが、すぐに椿の意に思い至り破顏する。
「ああ、そうだね。ただいま」
腕を伸ばして緩やかに抱き締め、純粋な挨拶の意で頬を触れ合わせる。椿は相変わらずジーノの施す西洋流の身体接触に慣れず、どぎまぎとして身を固くしてしまうが、ジーノはジーノで椿の物慣れなさを慎ましさや淑やかさといった美徳と捉えているようであった。
ジーノが住まいとして選んだ部屋は、主室、そして内奥の扉の先の寝室、寝室に隣接する洗面及び浴室といった間取りであった。椿の腰椎のあたりにジーノの手が当てられ、柔らかな挙措で椅子へと誘なわれる。暫らくの間とはいえ、己の快適を望むジーノは主室の家具―椅子を己が持ち込んだものと取りかえてもらったそうである。
「向こうで出逢った瞬間、気に入った椅子なんだよ。もう、これは日本に持って帰るしかないと思ってね」
椿は航空便の輸送料もだが椅子そのものの値段は一体幾等するのだろうか多少気になったが、愉色を浮かべるジーノを見ると、彼がこの椅子を望んだのであれば値は彼にとって妥当なものであったのだろうと思い直す。そして、全く自分が老婆心を抱くのは僭越かもしれないと頭の中から追い遣った。ETUの選手としての収入の他にも収入を得ていると本人から聞いていたが、その総額を耳にする勇気は全く無く、兎に角高額なんだろうなと、地方公務員の父と近所のスーパーのパート勤務の母という家庭に育った椿は曖昧な儘にしておいている―と云うより正確な所を聞くのが本当は恐い。
「深く腰掛けた時にすごく分かるんだけれど、肘掛の位置とかとても良く計算されているだろう?」
椿を掛けさせたジーノも、向かい側に相対して据えられた椅子に身を委ねる。
「これは、百年は前に作られた椅子なんだって。現代じゃこういう木材は欲しくても手に入らないから、必然的に作りたくても作れないそうだよ」
ジーノは陶然と肘掛の、掌を乗せた部分を撫でる。人の手が撫ぜる事で木材の色艶の深みがより増していく椅子なのだと告げ、椿も畏まっていないでボクの椅子を愛でてやっておくれと微笑した。
椿は、はいだかええだか分からぬいらえを口の中で返すと、おずおずと膝の上から両手を肘掛へと移動させる。そして双眸を瞬かせた。ジーノの云う通り、肘掛は乗せた肘の位置が高過ぎず低過ぎず、肩に楽な位置で腕の重さを支える。この後はもうクッションの利いた背板へと身を預けてしまいたい衝動を覚えたが、椿はそう云えば、自分はこのジーノの新たなお気に入りの椅子に座る為に来たのか如何か、それが明らかではなかった故に、ジーノのようには寛ぐ事が出来なかった。
不意に困惑の色を浮かべた椿に、ジーノは如何したのと尋ねた。
「…あのぅ、王子」
「うん」
椿は軽く頤を引いて、ジーノを上目使いに見上げる。
「王子は、……椅子を見せる為に、俺を呼んだんっスか…?」
ジーノは虚を突かれたように瞠目し、やがて唇に苦笑を克明に刻んだ。
「…そうだ。バッキーに慰めてもらおうと思って、連絡したんだった」
「えっ?」
ジーノの口から出た言葉に、今度は椿が瞠目する。自分が王子を慰める、何だろう、この違和感、と戸惑いと緊張に切迫され、我知らず顔色を変える。
そんな椿を置いて、ジーノは座面で腰の位置をずらしつつ、左足を上に脚を組んだ。
「帰ってきてから気付いたんだよ」
口調は穏やかなままであったが、眉を精一杯顰めたジーノの表情で、彼の機嫌が損われる何某かがあった事がはっきりと解る。椿は背に別の緊張が走るのを感じた。
ジーノは彼らしくも無く、肺から少々乱暴に浅く息を吐く。溜息、程度には収めきれない苛立ちなのであろう。
「…油断した」
椿は睫毛を瞬かせた。油断、とはジーノらしからぬ単語のような気がした。
「チームのスーツ用に使っていたタイピンとカフスのセット、盗られたみたい。今回の休暇先で」
「え」
油断とは、盗難の事かと椿の中で事柄の繋がりが出来た。出来ると、今度は驚きが表面に湧き上がってくる。
「王子、警察に届けなきゃ…!」
椿は座面から腰を浮かせたが、ジーノは動かず、弓手で椿を座るように制した。
「日本じゃ異常でも海外じゃ普通だからね。…その点に於いては、全くのボクの不注意だ」
帰国して荷解きしたら入ってないんだからねぇ、と休暇先の記憶を辿る眼差しのジーノには、くやしさと云うものは無いように椿の目には見えた。
「…ちょっと気に入ってたのにな」
過失を認める台詞を口にしたが、己が持ち物に手をつけられた不快感は隠せないのであろう。肘掛の上に置いていた馬手の示指が神経質に木の表面を幾度か弾いた。
椿はジーノの裡にあるのが、不快或いは不愉快なんだと解した。
遠征する際に着用するチームのスーツ、その中に纏うシャツの袖を閉じる金色のカフスを椿は目にしていた。自分をはじめ、ボタンで袖口を閉じているのが普通だから、皆と異なった身支度をしているジーノのそれを覚えていたのである。御洒落なんだなぁと眺めていた椿に、御仕着せだから如何したってブランド物は似合わないからねとジーノは云い、無銘ながら上品な造りの金のアンティークのそれを白い指先で抓んでみせてくれた。
そういう訳でね、とジーノは云い、組んでいた足を解き、投げ出した。
「ボクの心証は傷付いてる」
柳眉を顰め、不貞腐れたようにジーノは唇の先を尖らせる。
「慰めてよ」
椿は、ジーノの情動の流れを瞬時に掴む事が未だ出来ないでいる。そこへ次々とジーノの口から言葉を送り込まれると、ジーノに関して特に処理能力の遅い椿の頭の中が混乱を来たす。
「バッキー」
「! えぇ…ッ?!」
ジーノの双眸が凝っと椿の表情を見張っている。
事態とジーノの要求を理解した椿が悲鳴に近い声を上げた。自分の失態をジーノに遠慮会釈無く指摘される事は儘あるが、自分からジーノに何事かを能動的に行うなんて事が、椿の頭の中で想定されていない。それが彼を“慰める”となると完全に想像の外で、正解に辿り着くなんて事は到底不可能なような気がした。
「お、王子…」
「………」
黙然と動かない白皙の面に、解法の手掛りが示されよう筈がない。椿は自分の過去の中に何かないかと手探りする。中学高校の部活で失敗した時にドンマイと肩や背をぽんと叩かれた、これは今の王子の要求と絶対に違う方向だ、確実にジーノの機嫌を悪くする自信がある、ならばもう少し遡ってと脳裏の自分の身の丈を縮めていく。
そうして、弱りきった椿はたっぷりと逡巡した後、自分の思案について覚悟を決めた。席を立ち、椿は脚を投げ出して座るジーノの前に移動する。
ジーノは椿の臆病な心情を思い、視線も動かさずにいてやった。
怖々と伸ばされた椿の手がジーノの額髪を掻き遣る。髪を梳かれる心地良さに思わずジーノが双眸を細めた隙に、椿は彼の秀でた額に軽い接吻を落とす。
触れた脣吻の柔らかさは一度きりであった。
「…うーん…」
いみじくも赤崎が皮肉る處の“椿らしさ”から導き出された、何とも中途半端な覚悟の表れのような、それでも頭を撫でただけで済まさなかったのは、自分の陶冶の賜物なのか、要求を出した側としてジーノは椿の行動の評価に呻吟した。
「‘Freundschaft auf die offne Stirn’?」
「はい?」
外国語に疑義を示しつつ、緊張せずにすむだけの距離を取ろうと身を退きかけた椿の腰にジーノは腕を回して阻止する。
「…バッキーだからねぇ…」
緊張と羞恥の為であろう、服越しではあるが掌に伝わる椿の体温の高さをジーノは緩やかに愉しむ。そして、愉しんでいる自分を見出し、ジーノはその点をこそ条件として評点を決めた。
「まぁ、…及第点は、あげようかな」
椿が詰めていた息を安堵の為に吐いた、その肢体の弛緩がまた、ジーノの掌に伝わる。無邪気なのか無防備なのか、無性にイジワルしてやりたい衝動に駆られて、内心、苦笑を禁じえない。これで‘狂気の沙汰’を仕出かしてやったら泣くんだろうか、涙も出ないくらいに喫驚するんだろうか、ジーノは腕の中に立つ椿を見上げ、唇を三日月の形に吊り上げた。
*
手は尊敬, 額は友情, 頬は好意, 唇は愛, 瞼は憧れ, 掌は懇願, 腕と首は欲望;
それ以外は狂気の沙汰. [Franz Grillparzer“接吻”]