お題4:キス

さゆら様 【Fair sky

ジーノはハードカバーの小説を、椿はサッカーの雑誌をそれぞれに楽しんでいる時だった。
ジーノの選んだソファーに並んで座る穏やかな時間。
朝から降り続ける雨のお陰で出掛ける予定は延期となったが、椿はそれがイヤではない。
王子と出掛けるのは楽しいけど、こうしてただ一緒にいられるのも好きだから。
とても落ち着くし、心地がいい。
そんな風に思って、顔を僅かに伏せて文字を追う
端正な横顔に椿は見惚れていた。
さらりと流れ落ちる艶やかな黒髪に。
その隙間から見え隠れする、長い睫毛が瞬く様に。
しなやかで形の良い指がページをめくる些細な動きにも。
自身が手にしている雑誌の存在を、そして我をも忘れ大きな瞳にETUの王子様を映していたそんな時。
もしかしたら「王子ってホントに綺麗だよな〜」と思っていた事が口を突いて出たのかと思うほどに。
それくらい唐突に、けれど決して優雅さは損なわない動きで顔を上げたジーノが椿を見つめた。
そしてぐいと身を寄せる。
突然でビックリして胸が鳴ったのか。
至近から綺麗な瞳に真っ直ぐ見つめられてドキドキしたのか。
よく分からないけれど、それを考える時間はない。
なぜなら椿を少し見つめていたジーノが「バッキー、願い事を決めて」と言うからだ。
「え…っ?」
「願い事だよ。でも言っちゃダメだからね」
「え…あ、の…」
冷静に考えればジーノが口にした事など重大事ではない。
だが冷静ではなかった上、内容が想像外のもので椿は一瞬でテンパってしまう。
元々ソファーに並んで座っていた二人。
どちらかが腕を伸ばせば届くほどの距離。
だが今、隙間はゼロに近い。
不意に『近さ』を意識すると羞恥に駆られるのはいつもの事。
ベッドで濃厚な夜を幾度も過ごしたにもかかわらずだ。
そして今も『近さ』を意識してしまい、椿は更にドキドキして考えられなくなる。
あたふたと焦るばかりだ。
そんな椿には慣れているジーノはからかうような笑みを浮かべる。
「バッキー、ないの?願い事」
「や…急に…言われても…考えられな…っ」
「じゃ、時間あげるから今考えて」
「ウス…」
「1分だけ待つよ」
「えぇぇ…っ!?」
またそんな無茶を…!と思っても口には出ない。
だが表情を隠すのが不得手な椿では、ジーノにそのまま伝えているようなもの。
ジーノは一人で小さく混乱している滑らかな頬に右手を添えた。
「どんな些細な事でもいいんだよ」
その声は限りなく優しい。
いつも邪険に扱われているストライカーや、気性の激しいベテランや番犬と呼ばれる若手には想像すらつかない声だ。
それを無条件に与えられる椿はすーっと落ち着きを取り戻す。
煌めく瞳に、麗しい笑みに胸は高鳴るのに、柔らかな声が浮き立つ心を抱き留める。
一度落ち着けば、脈絡のないジーノの言葉でも精一杯考えるのは椿にとって自然な事。
しかも楽しそうな笑みで至近距離から見つめられればなおさら。
俺の、願い事…。
ぼんやりと呟くが意識は間近にあるジーノの顔に捕われたまま。
しっかりと見つめ合っているのだが、そうと気付いたのはジーノのみ。
椿は普段なら恥ずかしがって俯く状況にもかかわらず、見つめ返すばかり。
その表情は無垢でジーノは笑みを深くした。
「…願い事は決まったかい?」
「……え…っ?」
「決まった?」
至近で微笑まれ咄嗟に目を伏せた椿の瞳が捕らえたのは、ジーノの唇。
荒れる事などないかのように艶やかで、柔らかな孤を描いている。
キス…してほしいな…。
突然浮かんだ願いに椿は「…うわあぁぁぁ!」と声を上げ後ずさる。
信じられない、といった驚愕の瞳をジーノへ向けた顔は真っ赤だ。
短時間で様々な表情を見せる椿にジーノはクスクスと笑った。
「どうしたの、バッキー」
「な、んでも、ないッス…」
「そう?なら良いけど、もう1分過ぎてるよ?」
「あ!ハイっ。すぐ決めます!」
そうは言ったが先程浮かんだ願いが頭から離れない。
違うこと!と言い聞かせるが焦る為か効果はない。
まずは目を逸らさなければと思うのに、ジーノを見つめるばかり。
そして唇へと意識が向かう。
…王子の唇ってツヤツヤして綺麗だよなぁ。
王子がキスしてくれると、いつも幸せな気持ちになる。
恥ずかしいけど、幸せ…。
頬を染めたままぼんやりとジーノを見つめる椿に
声がかかる。
「バッキー、願い事決まったね。今すぐ目を閉じて!」
「あ…ハイっ!」
僅かな躊躇いも見せず椿は目を閉じた。
そして頬に温もりを感じ―――温かく柔らかな何かで唇を塞がれる。
………え?
思わず目を開けば長い睫毛に縁取られた瞳が視界の全てとなる。
その現実離れした光景に椿の唇が僅かに緩むと、ジーノの柔らかな舌がそっと差し入れられた。
体を繋げる時の貪り合うような激しいものではない。
だからこそジーノのキスによって生じる甘やかな痺れがゆっくりと椿を酔わせた。
王子…好き…大好き…。
胸の中で幾度呟いたか分からない、その大切な想いが椿を幸せにする。
やがて軽く音を立ててジーノが離れると、うっとりとした大きな瞳が向けられた。
その可愛らしい様にジーノはくすりと笑う。
「素直に目を閉じて待つ姿が可愛くてね、キスしたくて堪らなくなったんだ」
急で驚いたかい?と柔らかな笑みで気遣うジーノに、椿は首を横に振る。
「…急でも、王子の……キスを…嫌だと思った事は、ないッス」
「可愛い事を言うね、バッキーは」
「そんなこと…っ」
「ボクはそんなバッキーが好きだよ」
ストレートに告げられ、椿の頬が染まる。
喜んでいるのは明らかでジーノは笑みを深めた。
「バッキー、ちゃんと願い事を唱えたかい?」
「唱えなかったっス…けど、もう…王子が叶えてくれました」
「え…バッキーの願い事って、キスだったの?」
「あ、あの…っ!王子から、してもらえたら…幸せだなって…」
言いながら顔を真っ赤に染めて俯く椿をジーノは抱きしめる。
些細なことでも、とても大切に思って気持ちを偽らない椿を愛しく感じる瞬間。
自分のキスでいつも幸せになってくれるのなら、いつでも何度でも与えたい。
そんな時は、きっと自分も幸せだから。
その想いを甘い声と麗しい笑みで告げられ、椿は腕の中で微笑む。
「まだ欲しい?」
問い掛けに返すように、ゆっくりと顔が仰向く。
黒く大きな瞳が真っ直ぐに「欲しい」と告げていて。
言葉もないまま唇が重なり、伝えきれない想いを交わし合う。
自然と深さと濃度が増していくのに、長い時間はかからなかった。


「あの、どうして急に、願い事だったんスか?」
そう椿が問い掛けたのは甘くも熱いひと時を過ごした後。
くたりと身を任せたままの椿を腕枕にして抱きながらジーノは黒髪をすく。
それは汗に濡れ、いつもの軽やかさが足りない。
「この前、ふと思い出してさ」
「………?」
「10歳くらいだったかな…顔についた睫毛を取ってもらう時に、願い事を唱えると叶うっておまじない」
「おまじない…」
「同じクラスの女の子達がやってたんだけど、それを急に思い出したんだ。だからバッキーにやってみたかったんだよね」
「はぁ…」
おまじないという、余り馴染みのない言葉に椿は相槌を打つのみ。
それでも。
突然とはいえ、自分の願いを叶えようとおまじないを施してくれた事は分かる。
叶うか叶わないかではなく、その気持ちが嬉しい。
たどたどしいながらも、椿が己の想いを伝えると
「本当にバッキーは可愛いね!」
キスはいつでもしてあげるから、何かに願わずボクに言うんだよ?
甘く優しい声で告げられ椿は「キスして、ください…」と目を閉じた。