お題5:デート
華倫様 【Fahrenheit】
年齢の近い者同士で気の置けぬ会話する、と云うのは、体育会系のヒエラルキーを少なからず持っているこの場からすれば、穏当な選択なのであろうと思われた。その中でも二十代の前半の世良、清川、赤崎、椿が面子となってつるんでいるのは、よくよく考えれば達海猛が監督となってからの最近のことであったが、今や何の違和感も無い顔ぶれとなっている。生来ものづゝみな性質で、中学高校のサッカー部に於いても皆の輪の外周に引っ掛かっていた椿にとって初めて得た余人との距離である。巡り合わせと云うものは本当に奇妙で不思議だと椿は感じている。
その日の練習も終わり、シャワールームで身に纏わりつくような汗を流す。その後、ロッカールームで各々帰り仕度をしながら、この四人の中では一番年下の椿が、いつもの如く要領を得ない口調ながらも、ジーノに食事に連れられて行った折の事を何とは無しに口にした。
「えぇッ?!」
「マジッ?!」
それを聞き、揃って大声を上げたのは世良と清川である。世良の大きな目は零れ落ちそうな程に見開かれ、清川は吃驚して口を閉じる事を忘れている。
日頃、格好良い己と云うものを演出したがる赤崎も、やや瞠目し、驚いた顏を隠せないでいる。
椿は、三人の驚いた顏を目にして初めて驚く。
「? な、何か、変なんスか…?」
椿の声は自然、わなないた。気紛れだと云われるジーノが椿を食事に誘った事であろうか、引っ込み思案な自分がジーノの誘いを受けた事が無謀なのであろうか、椿は目を白黒させる。
途惑う椿を取り囲み、三人は口々に世間知らずの年下の後輩を思わず窘める。
「いやだって、椿よぅ」
「お前、ホント知らねーの?!」
「星も持ってる、結構有名なレストランだぞ。都内に数店舗あるが、その中でもお前が行ったのは本店」
「予約だって中々取れねぇって、雑誌にも載ってるじゃん!」
お前、雑誌読まねぇの? と尋ねれられ、椿は吃りつゝ、サッカー雑誌とかなら…と答え、世良と清川の二方向から、ちっげぇよ! デートとか、アニバーサリーとか、クリスマスとか、バレンタインとかの特集号とかさぁ! と手振りを交えた力の籠もった声に晒され、肩をびくつかせた。その、叱られた訳でもないのに自責し涙目になりつつある椿の様子を窺い見た赤崎は溜息を吐き、椿ですよ、手にも取らないでしょう、その類いの雑誌はと皮肉交じりの助け舟を出してやった。
椿はすっかり周章して己の服の胸元の生地を握り、動悸を治めようと息をゆっくり吸った後、記憶を手繰り当日の様子を口にする。
「…いや、だって…、普通にお店行ったら、普通に席に案内されましたけど? ……個室でしたけど」
聞いた三人は三様に、再び三方向から一遍に椿に言葉を浴びせ掛ける。
「それが、ありえねぇって!」
「予約取れねぇって話なのに、個室って!」
「どれだけ前から予約入れてたんだって話になるな」
そうして三人は皆とやや離れた位置のロッカーの割り当てを望み、その位置を当然のように確保しているジーノを、首を巡らせて振り返る。そろそろ矛先が向くかと、騒がしい年下の彼等の会話を聞くともなしに耳にしていたジーノは、彼等の疑問に答えるべく口を開いた。
「予約? 当日に、今夜行くからって電話しただけだよ」
当然の手続きを踏んだに過ぎないとジーノは、じとりと己を直視する三つの眼差しに答えた。
途端、真昼に幽霊を見たかのようにジーノの言葉を否定しに掛かる。
「ウソだ、当日に個室押えられる筈、ないじゃないですか」
「王子、いくら俺らでも騙されませんよ」
ジーノは僅かに眉を顰めた後、強いて穏やかな口調を作る。
「ボクは、嘘なんて、云わないよ」
莞爾と笑んでみせれば、対する彼等は卒然、口を閉じた―虎の尾を踏んでしまったかのような顏付きである。世良と清川は目配せし、赤崎を見遣る。それを受けて赤崎は嫌そうな表情を刷き、椿は椿で己が言葉は事実であるとジーノが証言してくれた事に一人、安堵の表情をのん気に浮かべている。赤崎は必然的に己に御鉢が回ってくる理由が嫌でも知れた。
赤崎は細く溜息を吐くと、電話一つで席を確保出来るからくりを、年長者に対しても遠慮の無い、例の調子で尋ねた。店側にとって、ジーノを粗略に出来ない何某かがあるのであろうと推察している。
ジーノとしても別段隠し立てする気は毛頭無かったのであろう、店が急な来賓の為に店側として常に押えてある一席を融通してもらった旨を告げた上で、それが己に可能な理由を何でもないかのような口調で付け加えた。
「些かなりとも、出資してるしね」
四人は、ジーノの「些か」な出資額が全く想像出来ず、胡乱な表情を各々の面に貼り付けた。宝くじやロト程度ならばまだ理解出来るが、株や投資となると雲上の気分になる。椿は己が当てた物などお年玉付き年賀ハガキの切手シートくらいだと、二十年の人生を振り返って思い、彼我の懸隔に肩を落としかける。
そこへ、ジーノの呟きが落とされる。
「…まぁ、ボクのPadreのお店でもあるし」
「え?」
「ぱーどれって」
「父親ってことだろう」
ヨーロッパの幾つかの言語の学習に勉めている野心家の赤崎が指摘する。
「えー!」
「マジっスか!」
揃って大声を出した世良と清川に、ジーノは五月蝿いなぁと呆れた顏をする。
「シェフ兼オーナーってだけだよ」
洒々落々にジーノは肩を竦めてみせた。修行の為に日本を出た先で、マエストロの技術と美しい妻をしっかり得たのだから中々に遣り手なんだろうと己が親の事ながらジーノは感心している。
「ジーノォッ!」
遽然、己が愛称を叫び、且つ腕へと縋りついてきた手の感触に、ジーノは眉間に皺を寄せた。徐に視線を四人から動かし、己の肘を鷲掴む人物を睇睨する。
「…ナッツ、ボク、男に縋りつかれると鳥肌が立つ体質なんだけど」
しっしっと、野良犬を追い払うようにジーノは手を振る。だが、振り切られた手を物ともせず、再び夏木はジーノの腕を果敢に掴む。
「男の頼みだ! 席とってくれッ! もうすぐ嫁の誕生日なんだ、ステキなディナーってやつをプレゼントしてぇ!」
「はぁ? なんでボクが。自分で電話して予約を取りなよ」
盛大に顰蹙してジーノは己が腕を夏木の手の中から振り切った。皺になった袖を気にし、反対側の手で折り目を払う。
「だって、俺、嫁が喜びそうな小洒落た店なんて、全然、知らねーし、検討も付かねーもん!」
「……」
拳を握り大声で叫んだ夏木を、ジーノは残念なものを見るかのような、否、それ以下の哀れむべきものを見る眼差しで見下ろした。
見守っていた世良、清川、赤崎もそれを聞くと脱力し、自ずと背筋が丸くなる。
「…ナツさん…」
「変に見栄張ってサプライズ狙わずに、奥さんと相談すりゃイイのに…」
「奥さんならナツさんの性格程度、熟知してるでしょうに…」
無理に背伸びをして、その化けの皮が剥がれた時に受ける心の傷はかなり痛いものだと彼らは思う―それが女性相手であれば、下手をすればトラウマになるんじゃないかと想像するだに恐ろしい。その上、夏木の場合は彼の妻である。日常の挙動か隠し事をしている時の挙動かなど、箸の上げ下ろし、靴の右左の履き順一つでガラス張りに分かってしまうんじゃないかと踏んだ。
「ナッツ」
「お、おう」
夏木は、思ってもみなかったジーノの非常に柔らかな声音に怯んだ。強硬に「いやだ」を口にすると思い込んでいた所為である。
ジーノは白皙の頬に微笑を浮かべてみせた。
「ボクは、君を生涯の伴侶に選んでしまえるような豪気な女性の好みは窺い知れないよ」
赤崎は、何気に辛辣な事を云ってるんだ王子はとこっそり苦笑いした。
「でもね。有名な店で、畏まって食事をして、緊張した声で誕生日を祝われて、本当に彼女は嬉しいかな?」
小首を傾げてみせたジーノに合わせ、何故か、夏木も同じ仕草をする。もしやナツさん、煙に捲かれかけてないか、と清川は薄っすら感じた。
「近所のファミレスであっても、君と奥方とお嬢さんと、三人で打ち解けあって、なごやかに楽しく過ごして、いつもの君の調子でおめでとうと言われる事の方が、奥方にとって思う處があるんじゃないかな?」
世良は夏木の復帰戦の折、小さな女の子がスタンドに連れて来られていた事を思い出した。確かに、高級レストランじゃあ小さい子は困るよなと、己もテーブルマナーを知悉している訳ではないことを顧みた。
「ボクは優しい同期だからね。もう一つ助言をあげるよ」
「ジーノ! お前、イイ奴だなぁ!」
破顏する夏木を見、赤崎、清川、世良はジーノに正面切って物を頼む困難さを改めて学習した。王子を動かせるのは、王子だけなのである。
「花を贈られて喜ばない女性はいない。ありきたりだけど、Papa Meillandなんて良いと思うよ。記憶に残る濃厚な香りだし、ドライフラワーにも適しているから、記念としてとっておけるしね」
「分かったぜ、ジーノ! お前は最高の同期だぜ!」
早速、花屋に花束を予約しに行くぜーと、鞄を引っ掴んだ夏木はつむじ風のようにロッカールームを飛び出して行った。
やれやれ、といった態で肩を竦めたジーノはぽつりと呟いた。
「……どう考えたって、花なんてボクがナッツに入れ知恵したと勘付くだろうねぇ」
「ナツさんって、私生活では全く以って奥さんの掌の上なんスね」
悟った声で赤崎が言った。
それを聞いたジーノは口許だけで笑みの形を作ってみせたが、直ぐにそれを収めた。世良と清川は目配せして、そーいうコトらしいと神妙な顏をし合う。話題記事として熱愛スクープされちゃうようなカワイイ彼女は欲しいかもだけど、お釈迦様みたいな奥さんはまだちょっと躊躇うなぁと唇をへの字に曲げた。
ジーノはジャケットのポケットから愛車の鍵を取り出した。
「じゃ、ボクは帰るよ」
練習に使用した衣類やタオル等はクリーニング業者を呼んで預けてあり、持ち帰るものなどジーノには無い―チームに入ったばかりの者は洗濯機で洗濯するんじゃないんだ! と驚愕するが、王子のするコトだと三日も居れば慣れる。
「あー、赤崎ぃ、俺、まだ車検中だから乗せてってくれー」
「そんじゃ、ついでに俺もー!」
「はぁ?! 何でそんなに車検長いんスか! んで、世良さんちは方向真逆なんスけど!」
顏を顰めた赤崎の両側に、世良と清川が付く。
「ケチケチすんなよー」
「センパイの頼みなんだぜー?」
さ、帰ろ帰ろと、着替えを詰めたスポーツバッグを肩にかけると、赤崎の左右の腕をそれぞれが掴み、駐車場へ向かって赤崎を引き摺る。ガソリン代要求しますよと赤崎は尖った口調で云っているが、断わる気はどうやらないらしい。三人は口々に挨拶を口にし、ロッカールームを出て行った。
「……で」
先刻來、何故か一人で顏を赤らめたり蒼くしたり忙しない椿をジーノは眄視する。
「おいてけぼりになっちゃったバッキーは、どうするの?」
「! あ、ええっと…」
世良達が出て行ったドアを見、問うたジーノへ椿は視線を動かした。
おや、涙腺が弛んでると椿の濡れた双眸を見たジーノは、迷い犬のようなそれに対してどうにも寛厚な己を覚える。何が何でも拾ってやらねばならぬ使命感が無性に胸中に湧きいずる。
「……仕方がないね。ボクは優しいから拾ってあげるよ」
「?」
王子は何を拾うんだろうと須臾考えた椿は、ついておいでと挙げられたジーノの手の動きに気付き、俺かと思い至る。ロッカーの鞄を取り、まだ残っているメンバーに挨拶すると、颯爽とクラブハウスから出ていこうとするジーノを追いかけた。
関係者用の駐車場に停められているジーノのMaseratiは、相変わらず塵一つなく鏡のように完璧に磨かれていて、ジーノ本人のようだと椿は思う。そのジーノと云えば、鍵を掌の中で繰りながら迷いなく助手席側へ向かうとドアを開き、自然な仕草で乗車をエスコートする。隙が全く無い、と椿は知らず固唾を呑み込んだ。
縺れる、という程ではないが、動きの鈍った椿の足に気付き、ジーノは朗らかな口調で己が付けた愛称を呼んだ。
「バッキー」
そうされると、益々ジーノの意向に逆らえない己がいて、椿は恥ずかしいやら照れるやら同性として情けないやら、諸々の雑多な感情の渦に呑み込まれて己の思う本当の処というものの位置が掴めなくなる。それでも猶、この場で求められているのは何かと考えれば、ジーノの手によって開かれたドアの先、革張りの座席に身を置くことであり、椿は夢中で己が四肢にそう命じた。
ジーノは、「ハウス」と指示された犬みたいだと密かに思ったが、椿の内心の平穏の為に敢えて口には出さず、軽い音を立ててドアを閉め、車体の左側へと回った。
ジーノが運転席に座る時、革のシートと絹の衣服が擦れるかそけき音がいつも耳朶を擽ると椿は思う。絹の音なんて、母さんの晴の着物以外で聞いた事なんてないに等しいよなと運動部で十代を過ごした記憶の中から思い起こす。隣でエンジンを起動させ、ギア、ステアリング、そして足許のペダルと一連の動きを滑らかにこなすジーノをそっと窺うと、母親の正絹の着物といった感じではなく、寧ろ正餐会のような夜会服に使われるheavy-silkだとも思う。そんな人に連れられて行った店、実は両手の指の数では足りない回数行ってますなんて事は先刻の場で赤崎達には、とてもでは無いが云えなかった。調理を担当したシェフがわざわざ席に挨拶しに来る上、毎回同じ人物ではなく、椿が覚えているかぎり日本人外国人を問わず数人はいた。ジーノが席を立っていた時に来たシェフもおり、あのシェフ達の中にもしかしたらジーノの父親が
いたかもしれない可能性を考えると、「王子のお父さんと顏合わせてたかもしれないんだ、どーしようッ!」と己の粗忽さ迂闊さに頭を抱えて叫びたくなる。
椿は、ジーノの右隣で大きな溜息をつく。
「……俺、“おいしかったです”の他に、全然気の利いた事云えてないです…」
ジーノは前を向いたまま―運転をしているからだが―、数度の瞬きを行う程の間をとった。その間に、色々と言葉の足りない椿の呟きの前後とその心裡を推察し、補う。
「おいしいものを素直においしいと言って、何が変なの?」
優婉な声でジーノは云う。
「バッキーが変な気を回す方が、余程変だよ」
落涙しないまでも、濡れる椿の黒瞳をジーノは糸惜しいと感じる―全く! このボクが! と己を驚く事すら新鮮で好ましい―。
「気におしでないよ」
ステアリングから離した馬手を椿の俯いた額へと伸ばし、そこへ掛かる前髪をジーノはさらりと梳いた。
ややあって、椿は顏を上げた。左へ動かした視線の先のジーノの横顔はいつも通り、貴族的な端正さを保ち微塵も揺らぐ處はない。唇には笑みが刻まれ、ゆるりと弧を描いている。意思によって造作された笑みではなく、自然に形作られた笑みであるのは椿にも判じられる。ならば、きっとジーノの言で間違いないのであろうと、椿は漸く愁眉を開いた。
その椿の和らいだ気配を機敏に感じ、ジーノは僅かに目を細めた。naiveでnervousなのは椿の美質である事を、ジーノは知っているのである。
「それにしても」
一転、ジーノは訝しげな声を出す。
「如何してナッツは自分の妻を“嫁”って云うんだろうね? ボクのMadreがPadreに、もし仮にでもそんな呼び方されたら、笑顔を浮かべてPadreをグーで殴って、さっさと荷物纏めてイタリアに帰っちゃうよ」
何でキチンと名前で呼ばないの、愛が感じられないよと嘯き、全く不可解だという顏をするジーノを、椿は瞠目して見る。
「ナッツの奥方って、スゴイよね」
「は、はぁ……」
婚姻歴のない椿は、同意も否定もしかねる。であるが、その点が王子の疑問で感心する処なんですかと、新たに知り得たジーノの価値基準を神妙に脳内に記憶した。椿にとっては、ジーノが未曾有の不可思議である。
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